問わず語り

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BGM:「パッヘルベルのカノン」

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お品書き


「なにはさておき量子論」の書籍化が決まりました
ヒッグス粒子
出版
超光速ニュートリノ その後
ニュートリノが光速を超えた?
物理と数学
grok
バレーボールとカーリング
テレマンのアリア
龍馬
忠臣二人
父のようなあなたへ
悪夢を脱出せよ
欧州紀行【Schloß Neuschwanstein】
欧州紀行【München】
欧州紀行【Rothenburg】
欧州紀行【Schloß Heidelberg】
欧州紀行【Vater Rhein】
納涼話
マスターの憂鬱
常識の物理
前略 谷村新司さま
珈琲便り
かもめ食堂
聖夜再び
帰郷
動きとリズムの芸術『大石真理恵さん』
10年前の私からの質問
核被害
日本沈没2006
粒子反粒子振動
プロジェクト×
常識・非常識
素晴らしいこと
白い恋人たち
校歌
大雪の日
聖夜
理解できない
今・昔
小松左京氏
月面バレーボール
隻手音声
出血サービス
「強行遠足」の思い出
磁気有害説への反論
故郷の冬
なぜ空は青いの?
Re:アキレスと亀
アキレスと亀
ききょう
私たちの『コンクラーベ』
私にとっての『レイモン・ルフェーヴル』
バレーボールな日々
至上の指揮者(西本智実さん)
自然の叡智?
我々の世代
無理数と虚数が整数を作る話
独眼龍
映画と涙
都筑卓司氏
荷電粒子と磁石の話
オーストラリアへの想い





「なにはさておき量子論」の書籍化が決まりました

2013/10/25 05:36

「わかっても相対論」に続き、「なにはさておき量子論」が二冊目として出版していただけることになりました。(^o^)
それを知らせてくれた海鳴社(出版社です)で、私を担当していただいた編集者の方から、次のような話を伺いました。
「日本科学技術ジャーナリスト会議」の賞の選考委員からお電話を頂きまして、「わかってしまう相対論」を読んでみて、「非常に分かりやすくて面白かったので、来年度の賞に推薦しようと思って読み進めていたが、随分古い説が出て来たのが気にかかった。今や宇宙が膨張を続けるのはもはや常識で、学会の関心はダークマター、ダークエネルギーに移っているのに今更ビッグクランチというのは・・・惜しいけど推薦はちょっとできない」との事でした。
うーむ、悔しい。「わかってしまう相対論」の元ネタを書いたのはもう8年も前なので、選考委員の方の言われる言葉にはぐうの音も出ません。

で、今度本にしていただく「量子論」は大幅に見直して、現代物理を反映させようと思っているのです。
「日本科学技術ジャーナリスト会議」と繋がりを持てたら、定年後は、科学ジャーナリスト、サイエンス・ライターの道もあるかなぁと夢を広げています。(^_^;)


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ヒッグス粒子

2013/10/23 02:55

皆様ご存じのように、今年のノーベル物理学賞は、「ヒッグス機構」に対して贈られました。受賞対象は二人、ピーター・ヒッグス氏とフランソワ・アングレール氏であります。
後者のフランソワ・アングレール氏はあまり知られていませんが、実は同じ年にヒッグス氏とは独自にヒッグス機構を提唱していたのでした。

さて、その同じ年とはいつなのか。なんと1964年のことです。驚かないですか? これって今から49年前ですよ。半世紀も前に発表された理論がなぜ今頃ノーベル賞? そうは思いませんでしたか。

理由があります。CERN(欧州原子核研究機構)のLHC(大型ハドロン衝突型加速器)が昨年7月にヒッグス粒子を確認した、この事実に尽きます。

物理学とは実証の学問です。どんなに美しく、もっともらしい理論を構築しても、その理論が自然(この宇宙)の実態と食い違っていれば、それは明確に間違っているのです。
だから、ヒッグス機構という標準模型(重力以外の三つの力を統一した理論)にとってかかせない理論が公に認められる(ノーベル賞を受賞する)のに半世紀もかかったのです。

物理学者は、傲慢とはほど遠い態度で学問を行っています。いかなる理論も検証されるまでは、仮説に過ぎないことを理解しています。

実を言えば、CERNの実験にはまだまだ課題があります。昨年ヒッグス粒子は確認されたけれど、そのヒッグス粒子が、5種類あるものの内のどれであるかは、まだ判別されていません。これは私個人のうがった見方ではありますが、この機会を逃すと、ヒッグス氏もアングレール氏も逝去されてしまうのを恐れて今年の受賞になったのでないかと考えてしまいます。(ノーベル賞は生存者にのみ贈られるって知ってました?)

現在超ひも理論が脚光を浴びていますが、この理論がノーベル賞を取るのは数百年後という事態になりそうです。


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出版

2013/10/22 05:32

トップページに、「わかっても相対論」が書籍化されました、と掲載させていただきました。その顛末を語っておきたいと思います。

始まりは今年(2013年)の3月。私のホームページの投稿にこんなメッセージが入りました。
初めまして、海鳴社の△△△と申します。
ホームページを拝見致しました。
大変にわかりやすく、そして興味をそそられるページであり、感服致しました。
もしよろしければ、弊社の方でCimarosa先生のページの内容を書籍化させていただけないでしょうか。

ご検討の程をよろしくお願いします。

海鳴社 編集部
△△△
正直に告白すると、私はこう思いました。「ははあ、これは噂に聞く自費出版詐欺だな。」(△△△さん、ごめんなさい。)で、意地悪なことに、こんな質問を返しました。「もし本を出して、一冊も売れなかったら私はいくら払えばいいのですか?」と。

やりとりは、それっきりになると思いきや、丁寧な返事をいただき、「その心配は不要です。当社の純粋な企画出版ですから、Cimarosa先生からお金はいただきません。」
さらに、これには、「わかっても相対論」のword版の草稿まで添付されていました。

これは信用してもよい、と判断した私は、全てを編集者の△△△氏に任せることにしました。
何度も原稿の見直しがありました。プロの編集者の指摘は鋭く、私も勉強させていただきながら、最終稿が上がり、晴れて出版の運びとなったのが、この7月17日でした。

自分の書いたものが(自費出版でなく)本になったのは、正直に嬉しかったし、達成感もありました。

尚、原稿料まで入り、それでモバイルPCを購入いたしました。望外の喜びです。
ベストセラーになるとは、露程も思っておりません。ただ、ロングセラーになればいいなぁ、と夢を持っています。
ホームページから生まれた本とはいえ、実際に書籍化されると、ネットとは異なる雰囲気があります。ご購入いただければ感謝いたします。(この本が売れれば、「量子論」「素粒子論」も本にならないかなぁ、と期待しているのです。)

実際の本は、かなり大手の書店の物理コーナーに行かなければ入手できないと思いますが、ネットブック(amazonなど)のほとんどで注文可能となっています。

読書の秋に、「わかってしまう相対論」はいかがですか。 はい、ここをクリック


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超光速ニュートリノ その後

2012/06/07 18:51

衝撃の発表から9ヶ月ほどが経過し、超光速ニュートリノの存在が撤回された。
私としても前回の『問わず語り』で衝撃的とコメントした出来事の撤回である。

CERNのチーム「OPERA」は、地上と地下の時計合わせのケーブルの接続不良を修正し再実験をした結果、ニュートリノと光の速度差は認められなかったと、超光速を撤回した。
チーム「OPERA」の大変潔い態度に敬意を表したい。元々の超光速ニュートリノ発見の時から、世界の検証を待ちたいと言っていたが、それを最終的に自分たちでやり遂げたわけだ。

物理とは検証の学問である。いかなる美しい理論でも、この宇宙がそれを認めなければそれは間違っている。物理とは自然現象を説明するものだから。

もし、質量を持つニュートリノが光速を超えることが、本当にこの宇宙の正しい事実であれば、相対性理論は根底から覆る。今頃世界の物理学会は大変な騒動だったはずだ。
ただ、相対性理論を正しく理解している人々は、超光速ニュートリノはあり得ないという確信を持っていただろう。(私もそうだった。エヘン。)

100年間あらゆる検証に耐え続けた理論を根底から覆すのは容易なことではない。全ての科学技術に相対性理論は食い込んでいる。これが間違いであったなら、それに変わる理論を作るのは極めて困難な道になる。人間において心臓が血液を送り出す器官であることが否定されたようなものだ。医者は途方にくれるだろう。

なんにしても良かったと思う。


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ニュートリノが光速を超えた?

2011/09/24 20:51

衝撃的なニュースが入って来た。
これにコメントしなければ、こんなHPを運営している意味がない。

一面トップで取り上げた全国紙もあったので皆さんご承知のことと思うが、光の速度を超える素粒子が実験的に確認された、というニュースである。

アインシュタインの相対性理論では、質量を持つ粒子は、光速になることはできない、というのがこれまでの常識だった。(このHPで、「わかっても相対論」を読んでいただいている皆さんには、常識であると信じる。)

ところが、ある研究者グループ(日本の名古屋大学のメンバーも関わっている)が、15000個のニュートリノの速度を測定した結果、ニュートリノの方が光速より速いと結論したのだ。

しかし、実は光速を超えるものを観測した、という事実だけでは、(厳密には)相対論の否定にはならない。
問題は、この宇宙で、一定速度にしか観測されないものが有るか否かなのである。

若干説明を加える。
アインシュタインの特殊相対性理論は、次の二つの原理を前提としている。
(1)真空中の光速度は、いかなる慣性系から測定しても一定である。(光速度不変の原理)
(2)どんな慣性系でも、物理現象は同じである。(特殊相対性原理)
詳しい説明はしないが、これまでは、あらゆる実験結果が、(1)の「光速度不変の原理」を指示していた。
真空中では、いかなる慣性系から測定しても光速度は同じに観測される、ということである。
特殊相対論は、この二つの原理だけから導かれる。誤解を恐れず言い切ってしまえば、光速より速いものを否定している訳ではない。

言いたいのは、今回の実験は、まだ「光速度不変の原理」を覆した事実を検証したわけではない、と言うことだ。(だから大したことではない、と言うつもりはない)

「光速度の不変が崩れない」、または、「光ではなく、ニュートリノの速度が不変である」、という事実が確認されれば、まだ物理学への影響は少ないのだが、「この宇宙に不変速度はない」、ということになれば、これは本当に現代物理学が根底から覆る。
なぜなら、現代の科学技術の基礎にあるのは、「相対論」と「量子論」であって、厳密な精度が要求される機器は、全てこの理論に基づいて設計されているからだ。

そして、これまでは、そのことに何も問題はなかった。ところが、設計の基礎理論が崩壊すれば、できあがった物の信頼性も揺らぐことになる。

私としては、興味津々というのが正直な気持ちだ。これは別に不謹慎であるとは考えていない。物理学とは、観測事実を説明する学問なのだから、相対論に反する事実が確認されてしまえば、相対論にしがみつく意味はない。

最後に一言。
今回の研究グループに敬意を表したいのは、まだ何も結論づけていないことだ。今回の実験を全て公開し、全世界に対し、追試を促しているのである。科学者の基本を踏み外していない。 非常に難しく繊細な実験なので、そうそう簡単に検証が出てくるとは思えないが、日本のJ−Parcも検証に参加するということで、楽しみなことだ。


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物理と数学

2011/03/21 02:13

最初に、今回の東日本大震災で被災された皆様にお見舞い申し上げると共に、より早い復興が成ることをお祈りいたします。自分も茨城県北部で被災しました。必ず日常が戻ることを信じて頑張りましょう。

物理学にとって数学とは何であるか、という話をする。
というのも、これを誤解して物理に取り組んでいる人が結構多いと感じるからだ。

宇宙(自然現象)を、我々の目の前にある風景に例えてみよう。
すると、物理学者画家ということになる。

いくら卓越した画家でも、目の前の風景をそっくりそのまま創り出すことは出来ない。
だから、カンバスへその風景を写し取ろうとする。

物理学者に戻れば、宇宙そのものを創り出すことはできないから、その宇宙がどのように出来ているのかを解明しようとすることになる。

画家は、絵筆絵の具を以て風景を表現しようとする。
物理学者は、解析学幾何学を以て宇宙を記述しようとする。

さて、画家は何をしているのか考えてみるといい。
最終目標は、如何に風景をあるがままに描くかを目指している。
そして、最後に第三者の評価を受けるのはあくまでカンバス上の絵である。
つまり、絵筆も絵の具も、風景を表現するための道具に過ぎない。
できあがった絵を評価するときに、誰も、絵筆や絵の具の「正しさ」を議論することはない。

物理も同じだ。できあがった理論が、どれだけ本物の宇宙を描き出すかが勝負なのである。
解析学や幾何学が正しいの間違っているのと議論するのは、絵筆や絵の具が正しいの間違っているのと議論するようなものだ。

問題はできあがった理論がどれだけ宇宙の真実に近いか、それが議論されるべき唯一のものである。
数学は、物理学が宇宙を描くための道具に過ぎない。
より使いやすい道具を探すことはあっても、筆が正しいとか間違っているとか議論するのはナンセンスだ。

「弘法筆を選ばず」、という。いかなる筆を使おうと真実に迫れるものは迫れるのである。
量子論で水素原子における電子の振る舞いを記述するのに、シュレーディンガーは「波動方程式」を用い、ハイゼンベルクは「行列力学」を使用した。
いわば、全く異質な筆を用いて、電子の振る舞いを描こうとしたわけだ。最終的には、どちらの理論も、同じことを言っていることがわかった。どんな筆を使おうと、できあがった絵がどれだけ真実に迫れたが問題であるということの証明だ。

蛇足ながら、「宇宙の真実」とは理想的妄想ではなく、あくまで人間が観測した結果という現実である。それ以上のものを我々は知ることはできないのだから。
風景を見ずに描かれた絵がその風景をより真実に近く表現したとは誰も言わない。風景を見ずに絵を描いてもいいが、それは描いた人間にとっての妄想的真実に過ぎない。


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grok

2010/05/08 00:53

"grok"という英単語がある。
英和辞典によれば、動詞であって、意味は「完全に理解する、よくわかる」となっている。 しかしながら、これだけでは、よく"grok"を表していない。 "understand"と何が違うかを言えば少しわかるかもしれない。"understand"が、いわゆる理解する、という意味に対して、"grok"は、「腑に落ちる」という訳語がより近いと思う。

もともと"grok"という言葉は、SF作家のロバート・ハインラインが創り出した言葉であり、「生まれつきの直感に深く根ざし、ほとんど本能的に何かを理解する」ことを意味する。
この意味で、私は「腑に落ちる」という訳語が近い、といったのである。

まだ、よくわからない人のために一つお話をしよう。
人はみな、ニュートン物理学を"grok"をしている、という話だ。

私は、学生時代バレーボールをやっていた。
敵方のスパイカーが、こちらのコートにボールを打ち込む。
私は、相手の動きを見ながら、ボールがどの方向に、どのくらいのスピードで飛んでくるかを予測する。
味方のブロッカーの動きと考え合わせ、着地点に入って、ボールを待ち、更にセッターへうまく返そうと、全身を調整して、ボールを受ける。

さて、私は、大学時代、理学部物理学科に在籍していた。
だから、他のメンバーより、物理的に物体の動きに関する法則を知っているから、うまくレシーブできたかと言えば、全然そんなことはない。(笑)

話は変わるが、大リーグのイチロー選手は、言うまでもなく凄い。
打者のバットとボールの衝突速度と角度を読み、弾性係数を考慮にいれ、そして、ボールの放物運動と更に、空気抵抗や、風速まで計算にいれ、ボールの下に滑り込む。そして、ホームベースにいるキャッチャー目掛けて、どのくらいの初速でボールを投げれば、レーザービームになるかを、瞬時に計算する。

なんてことを、やっている訳がない。

人は、別に頭の中で力学の計算なんかしていない。断言してもいい。
もし、そんなことをしているのなら、物理学を修得しなければ、名プレーヤーにはなれないはずだ。
そうであれば、古くは長嶋茂雄から、新しくは石川遼まで、多分、学生時代に物理が得意だったはずだが、残念ながらそんな事実はない。(断言してしまうのは失礼かな?)

ところが、彼らが無意識にそういう行動が取れるのは、物の動きを彼らは、"grok"しているからだ。
人に限らない、獲物を狙うライオンや鷲だって同じだ。
物体が、地球の重力下と空気中でどう動くかを、生物は本能で知っている。これを、"grok"という。生物が生きて行く上で身につけた技術である。
ところが、現在、この"grok"が、かえって邪魔になっている世界がある、といったら皆様は驚くだろうか。

何が言いたいか。
人は、他の動物より知性が勝っているため、自然界をより知ろうとすれば、"grok"できない領域に踏み込みつつあるということだ。

特殊相対論では、あなたと私の相対速度がゼロでなければ、お互い時計の進みが遅く見えることを主張し、一般相対論に至っては、4次元時空間があちこちでてんでんばらばらに歪んでいるという。
量子論では、位置と速度は、一度に決定できないことを結論づけ、更に、粒子は、それが何物かに発見されるまでは、虚の確率振動であるといいだす。
また、超ひも理論では、この宇宙は10次元でなければ説明できないとし、余剰次元は、極めてマイクロサイズに巻き取られているという。

さあ、いかがであろう。"grok"できた人はいただろうか。
いまや、人間が生きて行動する範囲での"grok"というものに固執し出すと、逆に自然の理解のさまたげになって来ているということだ。
あなたと私で時計の進みが異なるとか、時空間は曲がっている等ということが"grok"できずに、相対論は間違っていると主張する人はたくさん存在する。

しかし、"grok"できないからといって、それを受け入れない姿勢は、つまらない。

grokできない事を、grokしてやろうという試みを健全な好奇心と私は呼びたい。
grokできない事を、grokしてやろうという試みこそ、パラダイムの変換なのだと。

だから、現代物理は面白い。


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バレーボールとカーリング

2010/02/20 20:24

バンクーバーとやらで、オリンピックとかいう催し物が行われているという。オリンピックというのは、スポーツの祭典であるらしい。
そんなうがった事を言っていてもしようがないのである。私は、1972年のオリンピック以来、注目している競技があって、それはバレーボールであり、それが中継された日は見事に平日であったが、私は、それを最後まで観た。
いや、あの試合を途中で、TVのスイッチを切った人はおそらく希で<あろうと思う。二セットを連取され、第三セットも7点リードされる。これは、ソ連を最大の敵と見なしていた日本には、予想外のことであった。
バレーボールの日本.VS.ブルガリア戦は、日本時間で深夜二時から始まった。私は、中学三年であった。バレーボールとは縁も所縁もなかった私がなぜこれほど熱中して観戦したか、それにはそのときのバレーボール全日本監督の松平氏の戦略があったからだ。
『ミュンヘンへの道』というTVドラマ(アニメ)があっった。これは。全日本が、金メダルを取るというこを前提として作られたプログラムであって、少なくとも準決勝で負ける予定はなかった。ところが、準決勝の大苦戦、松平監督は銅メダルが頭にちらついたという。
大ベテランの投入で。この危機を乗り切り、最終的に金メダルを得た日本であったが、ボールゲームで金メダルを取ったのは、このミュンヘンのバレーボールのみである。
話がそれた。
カーリングというのは、バレーボールに似ている、というのが私の主張である。
要は、『つなぎ』である。自分のプレイは、次の人につなぐためのひとつの作業に過ぎない、という覚悟がバレーボールによく似ている。
基本は、攻撃でなく守り、という姿勢も私には納得が行く。勝つことより負けないことに重きを置く戦略が共通点である。
そして、何よりその真剣さが美しい。
『あいつの上げたトス、叩く時に、心が通い合う、何も言わなくて』、あらゆるスポーツの基本である。



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テレマンのアリア

2010/02/06 04:51

クラシックの小品で、あまりにもポピュラーになりすぎて、演奏形式に作曲者の名前を冠しただけで、世の中に通用してしまう曲がある。

最も有名なものは、おそらく『パッヘルベルのカノン』であろう。正式な曲名は、「3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調」の第一曲目(カノン)なのだが、正式名を知る人は少ない。ましてや、第二曲目のジーグを聴いたことのある人は希であろう。

他に、『ヘンデルのラルゴ』(オペラ《クセルクセス(セルセ)》中の「オンブラ・マイ・フ(懐かしい木陰よ)」)もよく知られた曲だし、『アルビノー二のアダージョ』(「ソナタ ト短調」の断片に基づき、ジアゾットが編曲したものと言われて来たが、近年は、ジアゾットの独自の作品と判明。)も著名である。

『チャイコフスキーのコンチェルト』といえば、「ピアノ協奏曲第1番〜第1楽章」のことであるし、「レクイエム ニ短調 K. 626 死者のためのミサ曲」(未完)は、『モーツァルトのレクイエム』として呼ばれる。

ところが、ここに『テレマンのアリア』という実に綺麗な曲があるのだが、ご存じの方はいるだろうか。

アリアといえば、名前こそ冠していないが、バッハの『G線上のアリア』が圧倒的に有名であるが、この『テレマンのアリア』、実に素晴らしい曲なのである。私は幸運にも、大学の生協で購入した、クルト・レーデルのバロック・オムニバス集のレコードで聴いて以来、耳から離れない名曲として忘れられないのだが、その後、全く聴く機会を得なかった。

これほどに美しい曲なのに、なぜ世に広まらないのか、未だに不思議である。この機会にネットで検索してみたが、正式な曲名すら調べることができなかったが、俗に「独唱、合唱と管弦楽のための〈マニフィカト ト長調〉の、テノールによる「アリア」」と呼ばれるようだ。

ところが、YouTubeで、この曲を見つけた。それには「マニフィカト・ト長調より第6曲アリア」と記載されており、なんと、私が聴いた、クルト・レーデル&ミュンヘン・プロアルテ管弦楽団が演奏しているものであった。

これは、是非紹介せねば、と使命感に燃え、この『問わず語り』にYoTubeを埋め込んでみた。

聴いた方、是非この曲を世に広めてもらいたいものだ。


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龍馬

2010/01/02 12:28

今年の大河ドラマは、坂本龍馬が主人公であるらしい。
日本史が大好きな私であるが、幕末というのはどうも私は好まない。おそらくは食わず嫌いなのであろうとは思っている。しかしながら、真に己の心に正直に生きた戦国時代に比べ、幕末は、権謀術策が鼻につく。
戦国時代に権謀術策がなかったかと言えばそうではない。農民の息子から太閤にまで上り詰めたあの豊臣秀吉は、権謀術策の達人であった。戦国当時、軍師と呼ばれた人々もまた、権謀術策の大家であったろう。
しかし、戦国のそれは、あくまで仕える主(大名)のための働きであった。それだからこそ妙なことに、自分が主に上りつめてしまった者(例えば、道三や元就、秀吉)は、そこから先へ進むことを躊躇する傾向にある。

幕末には、日本国が存在している。それは、UHN(United Hanes of Nippon)と呼んでもよい、『日本合藩国』であった。さしずめ今の東京は、Edo D.C. であろうか。
そのせいかどうか、幕末に登場する人間達は、攘夷派も佐幕派も尊皇派も倒幕派も、みんな日本国をそれなりに愛していた。信長と違うのはそこだ。

実は、この年末、TVドラマで、「JIN−仁−」というのが放映された。現代の脳外科医である主人公、南方仁が、幕末の江戸時代にタイムスリップして、龍馬を始めとする様々な人々と、医療を通して関わって行く物語だ。
TVドラマの原作である漫画(村上もとか氏)では、TVドラマよりも、「なにかのため」に生きる人々が描かれる。

現代は、『個』の時代であると思う。まるで戦国時代のようだ。対して、幕末とは、『滅私』の時代である。
龍馬は、人一倍『個』性的人物であったにも関わらず、あの時代であったが故に、『公』のために動いた。
魅力を覚えないではない。

しかし、公のために動く人物より、自分のために生き抜く人々に共感するのだ。
自己満足、利己主義ではなく、何かのために、己を捨てる生き方は素晴らしい。だが、あの維新の時代に生きた人々が、現代の政治屋の源流であるとすれば、どうも興が冷める。
現代に政治家はいない。利権で動く政治屋ばかりだ。幕末のように「公」に生きるふりをしながら、実は、戦国などより遥かに汚い「私の得」だけのために生きる、どうにも日本人の美徳を忘れた輩が多すぎる。

この際、世界のことはいい。せめて日本、なんとかならんか、龍馬さん。


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忠臣二人

2009/01/05 19:28

昨日から新しい大河ドラマが始まった。
タイトルは、『天地人』。直江兼続が登場する。大河には珍しく、戦国大名ではなく、その家臣が主人公である。
実は、この直江兼続によく似た人物が同時代に存在する。その名は、片倉景綱。ご存じだろうか。

直江兼続は上杉景勝の家臣であるが、片倉景綱は伊達政宗の家臣、思い出したろうか。1987年の大河『独眼竜 政宗』では、西郷輝彦が景綱を演じていた。

兼続も景綱も、その主君に対しては、立場も役割も非常によく似ているのだ。
重臣であり、参謀であり、片腕である。また、それぞれ主君の近侍出身ということも同じ。(昨日のドラマでは、兼続が秀吉に、自分に仕えるよう説得され、これを辞していたが、これも景綱と同じ。)
異なる点は、主君の性格であった。景勝が寡黙で目立たなかった事に比べ、政宗があまりにも個性的な活動家であったことである。おかげで、兼続の活躍が際だち、景綱は裏方の印象が強い。

私が注目するのは、この忠臣二人に、歴史上の接点が見られないことである。天下の計を図る才のあった二人が仮に出会い、戦国収束を語らったら、という歴史のIFを思うのである。
ご承知の通り、上杉景勝は、関ヶ原の西軍の将である。対して伊達政宗は東軍。これが鍵である。当時、会津に領地があった上杉に対し、伊達領は、陸奥仙台(当時は千代と呼ばれていた)である。隣り合わせと言っていい。これが第二の鍵。

もし、兼続が景綱を説得し、伊達氏を西軍に引き入れたら、多分歴史は全く別のものになったはずなのだ。
おそらく、景勝と政宗が直接こんな会話することはあり得ない。そこで、兼続と景綱なのである。
秀吉亡き後、公然と天下を狙った徳川家康は、上杉征伐を口実に、大阪を離れる。これが、石田三成を挑発する罠であったことは有名だ。宇都宮で三成挙兵の報を受けた家康は、三男秀康を宇都宮に置き、関ヶ原へ向かう。しかし、家康にとって頼りだったのは秀康ではなく、伊達政宗であった。伊達が上杉を脇から牽制していてくれたからこそ、家康は、安心して天下分け目の決戦へと向かえたのである。

もし、兼続・景綱両者が早く戦国時代を終わらせようと語らって、上杉・伊達連合軍を誕生させていたら、家康は、関ヶ原にたどり着く前に、西の三成軍と東の上杉・伊達連合軍の挟み撃ちに合って、滅びたであろうと思われる。
そうなれば、勢力から見て、大阪の秀頼など目ではない。きっと日本は、奥州が政治の実権を握ったであろう。
そう考えると非常に面白い。
今年の大河にも、伊達政宗は登場するであろう。片倉景綱が出てくるかどうかは分からないが、個人的には、とても楽しみにしている。


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父のようなあなたへ

2008/06/29 22:22

6月27日、レイモン・ルフェーヴル氏が、亡くなられました。享年78歳。
広く、大きく、やさしい方でした。

いっぱい、いっぱい、
大切なものをいただきました。

レイモンさんからいただいた、人としての優しさと、人生の素晴らしさを
これからも、みんなに伝えたい、そう思っています。

ありがとうございました、レイモンさん。


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悪夢を脱出せよ

2008/06/02 01:25

2008年5月31日土曜日。男子バレーボール北京オリンピック世界最終予選開幕の日である。 この大会は世界最終予選とアジア大陸予選を兼ねているため、五輪への切符を手にできるのは参加8チーム中2チーム。狭き門である。
全日本男子の初戦は、イタリア。ここ数年欧州で低迷しているとはいえ、今大会の優勝候補。全日本が北京で通用するチームか否かを試すには、そして今大会全体への弾みをつけるためには、絶好の対戦であると言えた。

全日本は、その力を見せた。1セット目こそ、がちがちに堅くなって、自分たちのペースをつかむのに時間がかかったが、第2セット、第3セットは、世界を敵に回して引けを取らない堂々たる戦いぶりだった。
いずれも、30対28という、大接戦のジュースを制してのセット奪取である。間違いなく全日本は世界へ挑む力をつけていたのだ。

そして、第4セット。ここまでの勢いをそのままに、イタリアを突き放し、24対17という大差をつけて、マッチポイントを奪う。選手も、ベンチも、観客も、そして対戦相手のイタリアですら、日本の勝利を疑わなかった。しかし、悪夢は、ここから始まる。
山本が二段トスの押し込みをミス。24対18。
ここで、痛いミスがでる。サーブカットは、セッター宇佐美の手から、センター山村へのクイックトスへ。山村がこれを空振り。24対19。
点差はまだ全然問題ない。イタリアのサーブは続く。ゴッツの当たり損ないが、それでも日本コートにチャンスボールで返った。ドンピシャ宇佐美へ渡ったボールに、山村は綺麗に速攻に入る。しかし、宇佐美が上げたのは、レフトからバックアタックで入ってきた山本だった。彼はこの日絶好調だったし、この選択に誰も疑問は持たない。最後をエースが決めて終わり、そう信じた。しかし、山本のスパイクは、アンテナに当たって得点はイタリア。24対20。
植田監督は、ここでタイムアウト。まだ4点差がある。手堅いタイムアウトと言えた。
タイムアウト開け。日本はサーブカットが乱れ、イタリアへのチャンスボールは、きっちり決められる。24対21。
連続4得点。日本は勝利を焦り、がちがちの状態。続くサーブは、なんとサービスエースになってしまう。24対22。
嫌な予感が漂う。しかし、まさか。
更に続くイタリアのサーブ。そうそうミスばかりしてはいられない。カットは、少し高めではあったが宇佐美へ入る。選択肢はいくつかあった。しかし、上がったトスは、エース山本へ。強烈に叩き込まれたストレートは、しかしアウト。24対23。
観客の声援が悲鳴に変わりつつある。このとき、一番驚いていたのは、相手のイタリアだったろう。99.9%負けたと思ったゲームが、なんと勝手に逆転可能な所まで戻って来たのだ。
イタリアのサーブは、宇佐美へ入る。上がったトスは、またも山本。読んでいたイタリアは今度はこれをブロック。日本拾って繋いだものの、ゴッツへのオープントスは、またもブロック。24対24。
日本のマッチポイントは消えた。

これ以上を書き綴る勇気がない。日本は、越川の活躍で粘るものの、結局33対35で日本はこのセットを落とすのである。

このショックを引きずって、第5セットを取れるチームは、世界広しと言えど、絶対にない。事実上、第4セットで試合は終わってしまった。

終わってからなら、何でも言える、と攻めないでほしい。
気がついてほしい。イタリアに19点目を与えた、山村へのクイックトスが失敗してから後、日本は、どんなチャンスボールでも、まったく速攻を使っていない。
実は、これこそが敗因だ。どんなに絶好調のエースがいても、日本バレーの原点は、速攻でなければならない。
セッターは、ここぞと言うときには、宿命として、クイックを使わなければならないのだ。19点目の失敗が宇佐美を萎縮させた。しかしそれでも速攻は必ず第1の選択肢でなくてはならない。
日本のセッターは、意志と勇気を持って、クイックを使わなければならない。これが結論だ。

6月1日、対イラン戦。植田監督は、速攻にこだわった。山村、松本に上げた宇佐美のトスが悪いと、徹底的に叱った。
やはり、植田監督こそが、速攻の大事さを分かっていた。
大丈夫。日本は、まだやれる。


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欧州紀行【Schloß Neuschwanstein】

2008/01/09 04:01

さて、"Schloß"とは、「お城」のことであった。(ハイデルベルク城で既に学習済みですね。)
問題は「ノイシュヴァンシュタイン」という長い名称である。一回聞いただけではとても憶えられそうもない。
ところが、単語を分解してみると記憶できるのである。私でも憶えられたほどである。

(1)neu:ノイ:これは英語の"new"つまり、新という意味である。
(2)schwan:シュヴァン:これは英語の"swan"、白鳥のことである。
(3)stein:シュタイン:これは英語の"stone"、石のことだ。

さて、これで繋がった。「ノイシュヴァンシュタイン」とは、「新白鳥石」のこと、と分かれば記憶できるのではないだろうか。
(余談だが、アインシュタイン"Einstein"とは、「ひとつの石」という意味を持つ。)

「白鳥石」とは、いったい何かは謎であるが、このお城は、有名な観光スポットであり、ロマンチック街道の終点であることでも知られている。そして、あまりにも「お城」らしい、その姿は、某ディ○ニー・ランドの「眠れる森の美女のお城」のモデルにもなっているのである。

ここが観光スポットとして、理想的な理由の一つは、自然に抱かれているということである。これは、このお城を作ったバイエルン王、ルードヴィッヒ2世の趣味であり、彼の中世への憧れの具現化の対象として作られたお城であることが大きな理由である。
上も、右も撮影した場所は、ペラート渓谷という断崖に架かるマリエン橋という所である。この景観を以て、自然の豊かさが理解してもらえるであろう。
このルードヴィッヒ2世は、お城作りに異様に執着し、このノイスヴァンシュタイン城が未完のうちに、更に三つほどお城を作る計画を立てており、あまりにも政治・経済を顧みぬその行動が政府の危機感を高め、首相ルッツは、彼を精神鑑定にかけ、軟禁してしまうことになる。それは、彼がノイスヴァンシュタイン城に住み始めて、わずか102日目のことであったという。

このお城の建設に17年かかったことを考えると、あまりにも短い住まいの期間であった。そして、更に悲劇が彼を襲う。なんと、軟禁された翌日、彼は主治医とともに消息を絶ってしまうのである。発見されたのはシュタルンベルク湖畔であった。この事件の真相は未だに分かっていないそうだ。
これは1860〜80年くらいのことで、日本では明治の代であり、廃藩置県が行われていたころの話である。

さてもうひとつの観光スポットの理由は、お城の中を見学できることにあるだろう。残念ながらお城の中は撮影禁止であったが、お城と言うよりは、美術館、博物館といった印象である。それもそのはずで、このお城を設計したのは、宮廷劇場の舞台装置・舞台美術を担当していた画家のクリスチャン・ヤンクという人だそうである。
お城の中は、まあ、こんなもんか、という印象であるが、バス停からお城までの散歩道(馬車も走っている)と、周辺の景観は一見の価値がある。



左は、お城側から見たマリエン橋。右は、お城中庭(ここまでは無料)から見上げたお城の様子である。
(ちなみにお城への入館料は、一人8ユーロであった。)


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欧州紀行【München】

2008/01/01 04:01

ドイツ二番目の夜である。(一泊目は、フランクフルトであったが、空港に着いたのが夕方であったため、ただ泊まっただけである。)そこは、ミュンヘンであった。格安旅行のため、ホテルは、ほとんど郊外だったのだが、唯一の例外がこのミュンヘン。
ミュンヘンといえばビールである。これはビールを飲みに行かねばならない。というわけで、夜のミュンヘンの街へ繰り出した。ドイツに来てからずっと、古都ばかり観てきたので、ミュンヘンは逆に新鮮である。やっと出会えた都会であった。飲食街には、怪しげな店もあったし、赤提灯に「居酒屋」と書かれた店もあった。きっと日本酒など飲ませるのであろうが、値段と味が期待できないので、興味はあったがパス。ホテルで聞いてきたドイツの居酒屋に入った。

実は、ドイツに来て以来、朝食以外は、すべてビールを飲んでいたのである。そして、「白ビール」を大層気に入ってしまった。ビールは大麦とホップでつくるのだが、この白ビールは、小麦とホップでつくる。これがいけるのである。こくがあって、喉ごしがよい、という日本のビールの宣伝になりそうなしろものである。
しかし、やはり本場ミュンヘンでは、しっかり大麦のビールを頼んでみたら、出てきたジョッキがでかい。これで1リットル。ぐいっといってみたが、ジョッキの重さは確かにすごいのだが、肝心のビールは、どうも日本のビアガーデンで飲む味とそう変わりがあるとは思えない。日本人観光客もたくさんいたようなので、日本人向けに、○ーパー・△ライでも、飲まされたのだろか、と思うほどである。
ちなみに、ビールの脇に写っている食べ物は、ソーセージではない。堅いパンである。表面についているつぶつぶは、塩の固まりであって、食べると大層塩っ辛い。(塩の付き方が均一でないので、部分的にはものすごく、しょっぱい。)ビールが進む食べ物である。

お待ちかねのソーセージは、右の写真である。ソーセージの左は、玉ねぎの酢漬けで、これはいけた。ドイツでは、食事に野菜がほとんど出ないので、野菜に飢えていたせいもあるかもしれない。
右側は、ポテトサラダである。(ポテトだけは、必ず出る。)
さて、皿の右上にあるのが、「白ビール」である。白くないじゃないかって? そう、私も最初に飲んだ時はそう思いました。一杯目のジョッキが、それほどでもなかったので、二杯目は白ビールになりましたのよ。(ちなみに、隣のテーブルに写っていらっしゃるピンクのセーターを着た方は、日本人でございました。)
ちょっと脱線。欧州旅行は、言葉も英語ではないし、日本人もいないし、と思っていたら大間違い。日本人団体観光客は、どの観光地にも、必ずいます。そして、韓国の方も、中国の方も非常に多く、観光地は、東洋人だらけである。日本語の看板や、日本語のわかるスタッフも必ずいるのでご安心を。


閑話休題。
ミュンヘンは、市庁舎が100年前のもので有名だと聞いて、観にいってみた。暗闇に浮かぶ建物は、確かに大都会の中とは思えない幻想的なものであった。こうして欧州の夜は更けて行く。


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欧州紀行【Rothenburg】

2008/01/01 02:11


さて、旅は『ロマンチック街道(Romantische Straße)』に入っている。
『ロマンチック街道』とは、恋人が寄り添って歩く、散歩道である。と思ってはいけない。(そんなこと思っていた人はいないだろうが、私は、それに近い自動車道なのだと思っていた。)
ドイツで、『街道』と呼ばれるものは、観光名所を、ほぼ一本の線でつなげた順路のようなものなのだそうだ。そして『ロマンチック』というのも、和製外国語の「ロマンチック」の意味ではなく、「ローマへの巡礼の道」を意味している。
いやー、勉強になりますなあ。

さて、ローテンブルクであるが、ここは、「ロマンチック街道の宝石」と言われる観光都市で、中世の町並みがそのまま残る大変に美しい街である。ハイデルベルクも、そういった街ではあるのだが、このローテンブルクは、正に異国に来ている、という気分にさせてくれる街だ。
観光地は、いわゆる旧市街であるのだが、ローテンブルクの旧市街は、ドイツの街のプロトタイプと呼ばれるほどである。
こぢんまりとした旧市街は、大急ぎで回れば、二時間ほどで一周できる。一周と言ったのは、この街は城壁(のようなもの)で囲まれているからである。
ただし、中には、クリスマス博物館を初めとした各種の博物館が点在しており(中世犯罪博物館というのもあった。日本語の看板があったので、わかったのだが。)、ゆっくり見て回ればそれなりに時間をかけても、楽しめる街のように見受けられた。

しかし、この街を例えば長崎のハウステンボスのような観光スポットと同じように考えてはいけない。この街に住み、商店を経営している人たちもいるのである。このへんがドイツの観光都市のプロトタイプと言われる所以であろう。


観光客は、この街に宿泊することが多いのだそうだが、私たちは宿泊予定がなかったので、ターゲットとして、市庁舎の塔を選んだ。写真左が市庁舎であり、右の写真の奥に見えるのが塔である。左の写真(市庁舎)の左奥に高い塔があるのだ。
市庁舎の暗い正面玄関脇の階段を上り始めるが、チケット売り場のようなものはない。これは無料なのかと、喜び勇んで登って行くと、最後の最後、展望台へ出るところで、2ユーロ取られた。おじさんが、風呂屋の番台のように座っていて、金を取るのである。この金は、いったいどこに落ちるのであろうか。(あの、おじさんの懐に入るような気がしてならない。)


ここを選んだのは、間違いではなかった。ローテンブルクの街が、360度、ぐるっと展望できる。その景色は、昔流行った、ブロックおもちゃ「レゴ」で作った街のようである。
ここは、お勧めである。穴場である。まず、人が少ない。(もともと、塔の上は、10人も上れば、いっぱいの狭さなのだが。)理由は、先ほど書いたように、市庁舎正面の階段の登り口に誰もおらず、ただの階段にしか見えないため、そこが塔への入り口だと、簡単には気づかないことにあると思う。「塔に登ろう」という確たる決意(おおげさ?)がある人としか、そこにたどり着かない。繰り返すが穴場である。雨が降っていなければ、是非登ってください。


市庁舎は、マルクト広場という、観光客が、まず最初に行く場所にあるので、見つけられない、という心配は決してありません。


上の写真がマルクト広場。一時間毎に、時計の両側から、二人の中世の市議が出てきて、酒の飲み比べをする、絡繰りで有名。

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欧州紀行【Schloß Heidelberg】

2007/14/12 19:51

ライン川クルーズは、”リューデスハイム”から”ザンクトゴアール”という駅(船着き場ですな)までの旅であった。

約2時間ほどであったが、前回書いたように、曇天で寒かった。しかし紅葉は真っ盛りであり、ドイツの晩秋を満喫することができたのである。ハックショイ!
(今「紅葉」と書いたが、ライン河畔に見るそれは、「黄葉」であり、いわゆる「もみじ」は殆どなかったのであった。)


さて、ローレライの岩にほど近い”ザンクトゴアール”から南東へ向かうと、古都”ハイデルベルク”にたどり着く。

そこで見る景色には、誰でもが既視感(デジャ・ヴ)を覚えるのである。確かにどこかで見たことのある景色だ。そして数十秒で気が付くのである。そうだ、これは、NHK「名曲アルバム」の景色だ、と。
耳を澄ますと、NHK交響楽団の演奏がかすかに聞こえて来るようである。(実際、フルートを吹いている若者がいた。)

実は今、右に見ている景色は、「ハイデルベルク城」から、市街を見ているのである。城というのは、ドイツ語でシュロス("Schloß")という。だから、「ハイデルベルク城」は、"Schloß Heidelberg"である。

ネットの世界においては、知識も、静止画も、最近では動画まで簡単に手に入ってしまうので、観光スポットと呼ばれるところは、殆どいながらにして観光できてしまうのである。もしかすると、実際にその場にいるより、その場所のことが分かるかもしれない。いやホント。
しかし、出かけて見ないと分からないこともやはりあるのである。この日、"Schloß Heidelberg"の中を歩いていると、やたらと魔女&ハリポタに出逢うのである。(ハリポタとは魔男のことである。)
とある広場では、魔女が宴会をしていたので、一緒に写真に入ってもらった。"Party?"と英語(のようなもの)で聞いてみたら、"Oh, it is such a thing."というような事を言った(ように聞こえた。)
あとで知ったことだが、どうもこの地の人は、誕生祝いをこのお城で行う習慣があるようであり、その時、魔法使いの仮装をするらしい。


旧市街から見た"Schloß Heidelberg"が右の写真である。

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欧州紀行【Vater Rhein】

2007/11/06 22:21

初めてヨーロッパへ行くことができた。
若干行くのが遅くて、晩秋と言うよりは初冬に近かったが。
今回は、「ライン下り」を。(タイトルの、”Vater Rhein”とは、「父なるライン」の意味)

ライン川そのものについては、調べれば分かる話なので、ごちゃごちゃ言わない。ただスイスからオランダまで延々とヨーロッパを流れる大河である、ことだけは言っておこう。
ライン川クルーズは、「ドイツの古城巡り」と言えば間違いない。(但し、スイスやオランダに川下りがあるのか否かは、未体験であり不明である。)ただ、最初にも書いたように、思いの外寒く、氷点下ということはなかったが、体感温度は、限りなく摂氏0度に近い。

妻のたっての希望で、顔は出してくれるなということなので、後ろ姿を披露するが、まるでカクマキを着た達磨である。
船内にはもちろん、カフェがあって、暖房も効いているし、暖かい飲み物、食べ物もあるのだが、我々夫婦は、ほとんど意地になって、全て甲板にいた。
カクマキ姿の妻はいいが、私は寒さに手をかじかませながらも、妻に手袋を奪われ、泣きっ面に蜂である。


さて、「古城巡り」だけあって、川沿いには、お城(砦兼住宅だったそうである)が、次々と現れる。


流石にこの風景は、日本では見ることができない。やはり日本は、竹・木・紙の建物の国であった。
そして、クルーズの終わり近く、かの有名な岩が目に入ると共に、あの歌がもの悲しく響いて来る。


               Lorelei
                          Heinrich Heine

               Ich weiss nicht was soll es bedeuten,
               Das ich so traurig bin.
               Ein Maerchen aus alten Zeiten,
               Das kommt mir nicht aus dem Sinn.
               Die Luft ist kuehl und es dunkelt
               Und ruhig fliesst der Rhein,
               Der Gippel des Berges funkelt,
               Im Abendsonnenschein.


                 なじかは知らねど 心わびて、
                 昔の伝説は そぞろ身にしむ。
                 寥しく暮れゆく ラインの流れ
                 入日に山々 あかく映ゆる。

旅の終わりを思う曲である。(本当は、始まったばかりなのである。)

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納涼話

2007/08/27 20:15

時節柄、涼しい話をしようと思います。

あなたは、心霊現象を信じますか。

ちなみに、私は信じていません。
しかし、心霊体験なら信じます。

えっ、話がおかしいだろうって?
そんなことはありません。なぜなら、私は、「現象」は信じていませんが、「体験」したことがあるからです。

私は、小学校のころから、よく「金縛り」にあう子供でした。
最初は、単なる金縛りでして、つまり、寝る前に布団の中で体が動かなくなるんですね。感覚的には5分から10分くらいでしょうか。まさに「金縛り」としか言えない状態になりました。そうですね、初めての時は非常に恐ろしかった。ただ、体が動かないだけなんですが、このままずーっと動かなくなるのではと考えたら、それは恐ろしいですよ。

高校のころから、金縛りにあう頻度が増えました。小中学校のころは、半年に一回くらいの頻度だったのが、高校で月一回、大学はむちゃくちゃで、一晩に立て続けに四回あったことがあります。金縛りが解けて、再度眠ろうと思うと、また金縛りになる。それが続けて四度。
しかし、頻度と共に変わったことがあって、それは、金縛りの最中に妙なものを見るようになったんですね。

高校時代は、天井の隅に、何か、もやもやと人間のようなものが見えました。
大学時代は、それが、エスカレートしました。枕元にお婆さんが立っていたり、胸に何かが乗っていたりしました。机の上に猫が現れて、ニャーと泣いたりもしました。
金縛りの最中に、自分の体が天井に浮き上がって、下に寝ている自分を確認したこともあります。
一晩に立て続け四回、というときには、流石に気味が悪くなって、同じ下宿の友達の部屋に寝かせてもらいました。

立派な心霊現象ではないか、と思われるかもしれませんが、私は、金縛りは、生理学的現象だと、知っています。
大学三年のころには、金縛りにかかる条件がわかってきました。それは、「疲労」+「寝不足」です。
だから、テツマン(徹夜麻雀)のあとに非常に多い。(爆)
さらに、金縛りが解けたあと、よーく思いだして見ると、部屋の中の様子が違っていたりするのです。
結局は「夢」を見ている、ということです。

精神生理学の専門家の研究でも、金縛りにあった本人は、目覚めているつもりだが、実際には、眠ったままであり、「金縛りの時に見たり聞こえたりするものは、脳が作る幻覚や幻聴」なのだそうです。
『医学的には「睡眠まひ」という生理現象と検証されており、寝入りばなの、浅い眠り「レム睡眠」が原因。普通は深い眠り「ノンレム睡眠」が先行するが、2度寝や疲労で睡眠のリズムが乱れると、いきなりレム睡眠に陥り、体は眠っているのに、脳の一部だけが活動した状態になる。体を動かそうという意思があっても、体には伝わらない。この時、金縛りや幻覚が起こりやすい。』ということである。

まさに、私の体験とぴったりあてはまり、従って、この「金縛り」を心霊現象とは考えてはいないのです。
しかし、今でも思うのですが、あの時の恐ろしさは、正に「心霊体験」としか言いようがない。見えないはずのものが見え、聞こえないはずの音が聞こえるんですから。
ありえないものがそこにいる、いるような気がする。だから恐い。金縛りであろうが、気の迷いであろうが、夢うつつであろうが、そりゃ恐いんですよ。

言い換えれば、心霊現象など信じていないのに、妙なものが見えてしまう自分が恐いんだと思います。
十人くらいが一緒にいて、全員が同じものを見たのなら、きっと恐くないんだと思うんですよね。

私の心霊体験で、実害にあったことはありません。金縛りにあって、その最中に妙なものが見えるだけのことです。しかし、何回そのような体験をしても、あるはずのないものが見えれば、やっぱり恐い。だから今でも、一人の寝付かれぬ夜は恐いのです。


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マスターの憂鬱

2007/06/24 11:51

こんにちは、「知満爺」のマスターです。
夢ではあるけれど、「学生街の小さな珈琲専門店」を持ちたいと思っています。

ところが、この頃ふと思うのです。「小さな喫茶店」って、あり得るのでしょうか?

言葉に矛盾はありません。
しかし、そんなものを作ったら、存続させて行こうとしたら、妙なものができあがるんだろうなぁ、と。

意味がわかりませんか?
つまりは、小さな喫茶店は、妙にだだっ広い敷地に建ってないと、客が来ないだろうと言うこと。
そうです、駐車場。

私が学生だった30年前、マイカーは普通になりつつあったけれど、自動車ってのは、少なくとも学生が乗り回すものではなかった(はず)。大学の構内に駐車している車なんて見たことなかったぞ。駐輪場はけっこうにぎわっていたけれど(自転車95%、二輪5%)。私の下宿では、1台の自転車をみんなで使い回していたくらいだから。

この前、行ってみたら学部に入る入り口数カ所には、警備隊こそいないものの国境のような間仕切り(って言うのだろうか?)が設けられてあり、(多分)IDカードを提示しないとバーが上がらない仕掛けになってるみたいなんです(ETCみたいなもんだ)。信じがたい光景なのです。職員用でないことは一目瞭然。かつて空き地であった場所には所狭しと自動車が止まっています。

うちの大学は、いつから車通学できる近距離学生ばかりになったのであろうか? 違うのです。最近の学生は、マンションに住み、車を自分用に持っているらしいのです。

よって、「学生街の喫茶店」には、駐車場が必要になる理屈です。駐車場がないと、客が来ないのです。であれば、いくら質素で小さな喫茶店を望んでも、不釣り合いに広大な駐車スペースが必要になる訳なのです。

私が学生のころは、タクシーはおろかバスだって殆ど利用した覚えがありません。ひたすらに歩いたものです、どこまでも、どこまでも。時間だけはあったのです、金はなかったけれど。美味い珈琲を目当てに、小説本を持って出かける店や、バッハを聴きたくて、パフェを食べに言った店。あのママもマスターももうご老人だよなあ。そんな店が普通に街角にあって学生で賑わっていました。

そんな店が消えていたのは、車を持った学生が目指す場所では無くなったからでしょう。学生ですらこの状態なのだから、社会人ともなれば、大げさでなく、もう車はひとり一台の時代。

この30年で、社会はここまで様変わりし、坂を転がる雪だるまのように惰性がついてふくれあがっています。
「ハイブリッド」とか「チーム・マイナス6%」とか言っても、地球温暖化と、慎ましい喫茶店にとっては、とき既に遅し、と思うのは、私だけでしょうか。


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常識の物理

2007/05/16 22:15

物理学者が、「それは常識だ。」と言ったとします。
さて、あなたはどう感じるでしょうか。

おそらく、それは、物理学者の間だけの『常識』なのであって、一般の人には、少なくともあなたには、『非常識』なことであるに違いない、と考えるでしょう。
それは、半分正しく、半分間違っている、と私は言いたいのです。

例えば、『相対性理論』と聞いたとき、あなたは、この言葉にどんな印象を受けますか?
「アインシュタイン」「難解」「現代物理の最前線」「私には関係ない」
そんな言葉を思い浮かべませんでしたか?

まず、『相対性理論』がアインシュタインにより発表されたのは、いつであるか知っていますか?
お教えしましょう。それは、1905年です。
まずこれで、「現代物理の最前線」という言葉が当たっていないことを認識してください。『相対性理論』が世に出て、もう100年以上経つのです。

そして「難解」という事が、思い込みにあるということも知ってください。
もし、高校生が、『相対性理論』を知ろうと思ったら、それはそれほど難しいことではありません。

『相対性理論』は、等速運動をする人たちが、どんなふうに光の速さを測定しても一定になる、という事実から始まり、そしてそれだけなのです。
なにを言ってるか分からない、と言わないでください。
時速$60km$で走っている自動車から、前方へ時速$30km$でボールを投げたら、地上にいる人は、ボールの速さをどう見るでしょうか?

「あなたの常識」は、時速$(60+30)=90km$に見える、というでしょう。正にこれが常識のはずです。
ところが、さっき言った「光の速さが一定」という観測事実を認めると、
時速$60km$で走っている自動車から前方へ光を発した場合と、時速$120km$で走っている自動車から光を発しても、地上で観測する人には、光は同じ速さになるのです。

光の速さが、普通に私たちが経験する速さを遥かに超えるので、これに気付かなかっただけなのです。

これは、もう100年も前に分かった事実です。それなのに、これが、未だに「常識」になっていない。
これを私は、とても不満に思うのです。
私が、このホームページで書きたいことは、難解な知識の自慢なんかではありません。
本当なら「常識」になっていなければならないことを、ただそのままに知ってもらいたい、それに尽きます。
そういう眼でコンテンツを読み直してもらえるとうれしいなあ、と思っています。


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前略 谷村新司さま

2007/04/28 23:35

久しぶりに、ALICEを通しで聴いてみました。そしてあらためて気付くことがありました。

『ALICEY』までは、違和感なくALICEを聴いていたのです。おっ、これは谷村さんらしい曲だ、とか、これは、チンペイさんとベーヤンのハーモニーがいいねえ、などと。
ところが、『ALICEZ』に入って、あれっと思いました。谷村さんらしい曲がなくなったと感じたのです。で、ライナーノーツを確かめたら、谷村さん作詞・作曲で、自らが歌っている曲は、「未青年」のみ。
なにか妙に感じたけれど、『ALICE[』に入ったら、もっと気になる曲がひとつ、。それは「それぞれの秋」。これは谷村新司の曲だよなあ、と思ったら次の『ALICE\ 謀反』はもうALICEのラストアルバムになってしまう。

しばらく考えました。前々から思っていたことはあるのです。それは、ALICEは、後になるほどALICEっぽくなって行くなあ、と感じていたこと。それを裏返しに考えてみると、後になるほど谷村さんらしくない曲が増えているのではないか、ということ。
それまでのALICEには、「甘い夢」、「シベリア悲話」、「彷徨」、「雪の音」、「フィーネ」など、必ずソロ・アルバムに入ってもおかしくない曲が入っていました。
対して、谷村さんのソロ・アルバムは、最初の『蜩』以来、着実に、『谷村新司』らしさを増しています。人間『谷村新司』のヒストリーと言ってよいと思います。

『ALICEZ』が出た頃というのは、谷村新司のソロ・アルバムでは『喝采』の時期と重なります。ひとつ前は二年遡って『黒い鷲』ですから、間に『栄光への脱出』を含む、ALICEの全盛期がありました。
これは何を意味しているのだろうと考えて、気がついた。『ALICEZ』あたりを境にして、「ALICEのチンペイさん」と「谷村新司」が分裂した、ということ。

だから、『ALICEZ』では、谷村新司色が極端に薄れた。そして『ALICE[』では、このままでよいのか、という迷いが生まれたのでないかと。『ALICEZ』では、あの「チャンピオン」を二人で歌っているのに、『ALICE[』の「それぞれの秋」なんかは、ほとんど本人が歌っている。本当はソロ・アルバムに入れたい曲だったのではないかと想像します。そして、ソロでは、『ALICE[』に先行して『昴』がでています。

『ALICEZ』以降では、谷村新司ソロ活動が充足感を増すのに対し、谷村新司ではない『チンペイさん』が、葛藤していらっしゃったのでしょう。

そして『ALICE\ 謀反』では、「LIBRA−右の心と左の心−」というなにやら象徴的曲があり、「MOON SHADOW」や「ハドソン河」、「エスピオナージ」といった、『ベーヤン』との見事なハーモニーを聴かせてくれる佳曲が生まれています。きっと最後のALICEとしての『チンペイさん』を昇華させたのでしょう。

そんな訳で、私の中では、『チンペイさん』はALICEであり、『谷村新司』は、ソロアーティストなのです。

ALICEではYが一番すきかなあ。「何処へ」いいですねえ。『ALICE/0001』で、ニューアレンジでよみがえってますが、やはり、私は『ALICEY』の方がが好きですねえ。
ALICEに限っていうと、どうもチンペイさんが作詞して、ベーヤンが作曲している曲が好みのようです。一番ALICEらしい曲ですものね。ただメインボーカルはベーヤンが多い。
谷村さんのソロ・アルバムだと、どうしてもALICE色が消えています。『ALICEZ』あたりから既に、チンペイさんとしては、無理してALICEらしさを出していたように感じてなりません。

カミさんは、今でもALICEが好きで、「2001復活ライヴin神戸」のビデオを宝物にしています。
カミさんいわく、「紅白で、ベーヤンが、「遠くで汽笛を聞きながら」を歌ったとき、チンペイさんが、そっと現れて、バックボーカルをやってくれることを祈っていた」そうです。

草々


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珈琲便り

2007/02/25 15:02

年始めから、「コーヒーコーディネーター検定講座」に挑戦していますが、本日実習その1にチャレンジ。
(これはちょっとさぼりすぎか?)
課題は、炒り具合(ロースト)の違いを自分で確かめること。

驚愕しました。
ローストが珈琲に及ぼす影響がこれほどとは思いませんでした。これは、珈琲の品種を凌駕する効果を持つのではないかと思ってしまいました。
おそらく、ローストの違いを自分で確かめたことのある人は極めて少ないと思われます。
なぜなら、日本で市販されているロースト豆は、ほとんどが「シティロースト」と呼ばれるものだからです。

蘊蓄コーナー
珈琲のローストは、炒り方の浅い方から次のように分類されます。
(1)ライト
(2)シナモン
(3)ミディアム
(4)ハイ
(5)シティ
(6)フルシティ(ジャーマンとも呼ばれる)
(7)フレンチ
(8)イタリアン
(1)(2)を浅炒り、(3)(4)を中炒り、(5)以上を深炒りと呼ぶそうです。
深炒りの方は、名前から分かるように、ドイツ、フランス、イタリアで好まれるローストです。
シティというのは、アメリカの東海岸(ニューヨーク)を意味します。


驚きです、本当です。
今回は、同じブレンドを、「ミディアム」「シティ」「フレンチ」で飲み比べてみました。

【シティロースト】
これは、飲み比べの基準とするロースト。味わってみて、基準に相応しいことがすぐに分かります。
苦みと酸味を両方ともきちんと感じることができます。一般に「コク」と言われているのは、この双方をきちんと感じられることなのではないかと、これは私の実感。

【ミディアムロースト】
これは、私の好みに最も合致しました。なぜなら、私は珈琲に酸味を求めるタイプだからです。この「ミディアム」は、酸味がくっきりと立っています。

【フレンチロースト】
これは、私には酸味をほとんど感じることができませんでした。苦みが勝っているというより、酸味を感じられないというのは、私には、ちょっと辛い。

さて、話を戻します。シティローストという炒り方は、アメリカと日本でしか行われていないらしいんですね。ヨーロッパは、これよりも深炒りになります。(おそらく、珈琲における「アメリカン」という呼び方は、ヨーロッパ系に対する浅炒りから来ているのでしょう。)
逆に言うと、日本ではシティ以外のローストを楽しむには、自分でローストしなければならないことになるわけです。
もう一度繰り返しますが、この「ロースト」が珈琲に与える影響は、想像以上に大きいのです。今日、私はそれを身を以て実感しました。
モカは酸味が強く、ブラジルは苦みが強い、と思っていたあなた、認識が間違っています。
「浅炒り」は酸味が強く、「深炒り」は苦みが強い、のです。だから、苦みの強いモカだってあり得るのです。

飲み比べるといっても、個人の持っている珈琲道具では、一度には淹れられません。ミルもドリッパーもいっぱい持っているわけじゃないですから。従って、それぞれのローストで淹れて、その味をしっかり記憶して、比べてみなければならないわけで、これは結構難しいです。最初に比べた時は、ミディアムの酸味も若干物足りなく感じました。
ところがです。
カップにそれぞれ淹れた珈琲を、実際に飲み比べると(これはもちろん冷めちゃってるわけですが)印象が全く変わります。
ミディアムローストの酸味がくっきりと立つのです。非常に好ましく感じられる。(私の好みですよ。)

いや、勉強になりました。
みなさまも機会がありましたら、是非浅炒りを試してみてください。いわゆる水っぽいアメリカンとは違い、しっかりした酸味立つ珈琲を味わうことができます。

普段、私たちが味わっているのは、シティ以上の深炒りなのだということを忘れないでください。ヨーロッパに行って、飲む珈琲は、実は苦みの珈琲なのです。だから、クッキーが添えられ、カフェオレなどに合うのです。


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かもめ食堂

2007/01/08 20:11

観ちゃいましたよ、「かもめ食堂」。
見ちゃいましたよ、小林聡美さん。

泣ける映画ではありません。
特段、感動に身を振るわせる映画でもありません。

ありそうで、しかし絶対にあり得ない日常を描いています。
しかし、なんだか涙出ちゃいました。
なんだか、感動しちゃいました。

これまでの、小林聡美さんの出るドラマには、必ず、劇中の聡美さんが、「なんじゃ、こりゃー!」って叫ぶ、
そういうシチュエーションがあったように思います。
聡美さんが、必ず「なんじゃ、こりゃー!」状態に追い込まれるんですね。
「転校生」しかり。(他人と体が入れ替わっちゃうんだから)
「ゴジラVSモスラ」(いわずもがな)
「すいか」しかり。(毎回、毎回「なんじゃ、こりゃー」の連発です)
「神はサイコロを振らない」しかり。(諦めの人生に訪れる、信じられない出来事)

この「カモメ食堂」には、それがありません。
観ている方には、最後まで不思議なんですよ。
なんで聡美さんがここにいるの?って。
でも、今度の聡美さんに「なんじゃ、こりゃー!」はありません。
そこにいて当然、というふうに登場して、最後まで、彼女には「驚き」がないみたいなのです。
そしてなんでそこにいるのか不明です。

でも、聡美さんがそこにいることにより、いろいろな人がそこに集まって来ます。
集まって来る人たちの事情は、それぞれに描かれており、それがとても楽しい。

聡美さんだけが、とても自然体で、何かを超越してたたずんでいる。

なんで、フィンランドなのかなあ。
フィンランド語、上手だなあ。

とってもいい映画を観せてもらいました。DVDは愛蔵版です。


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聖夜再び

2006/12/18 23:36

ある年の12月24日と25日の間の夜。
突然、ある街のある家のある部屋に、真っ赤な服を着、白い髭に覆われた者が現れた。

一人の少年が布団にくるまって泣いていた。
ふと気付くと、自分の前にサンタクロースの格好をした者がいる。
それに目をとめたとき、サンタクロースが少年に話しかけた。
「何か望みはあるかね、かなえてあげよう。」
少年は少しどもりながら言った。
「あなたが誰だか知らないけど、放っておいてください。僕は今、死ぬことを考えているんだ。」
サンタクロースは言った。
「なぜ、死ななければならないのだ。」
「友達が僕からお金をせびる。無いって言えば、いじめるんだ。」
「お金がないのか。」
「親は僕に小遣いをくれない。」
サンタクロースは言った。
「少し待ちたまえ。」
サンタクロースは消えた。


少年の両親は眠りについていた。そして、なにかの気配に気が付いて目をさました。
サンタクロースが脇に立っていた。
「君たちの子が、死を考えていた。彼はお金が欲しいそうだ。」
父親が言った。
「金だって? やろうにもそんな物はない。私が働いている工場は、年の瀬だというのに、ボーナスどころか、給料さえ滞っているんだ。」
母親が言った
「息子が友達にいじめられていることは知っています。でも何ができるの。うちの人は真面目で、腕のいい働き者。ところがうちは食っていくのが精一杯。人様にくれてやるような金はないんです。」
サンタクロースは言った。
「少し待ちたまえ。」
サンタクロースは消えた。


父親が勤めている町工場の工場長は、真夜中だというのに、まだ事務所にいた。
ふと気付くと目の前に真っ赤な服の男が立っている。
「ここで働いている男が、お金をもらえないと嘆いていた。」
工場長は言った。
「私だって好きで払わないわけじゃない。うちのような零細企業は、親会社からの仕事が途切れたら潰れるしかない。無理は承知でも、部品を提供しなければ、存在できないんだ。親会社の利益のためなら、腕のよい職人に泣いてもらうしかない。私だって、せめて工場を潰さないために、こんな夜中まで、手形の決済方法に頭を絞っているんだ。」
サンタクロースは言った。
「少し待ちたまえ。」
サンタクロースは消えた。


零細企業の親会社の社長は、ベッドで眠っていた。彼は、語り掛けられる声に目を覚ました。
ベッドの脇にサンタクロースが立っていた。
「君の会社の子会社の工場長が、お金がないと苦しんでいた。」
親会社の社長は言った。
「バブルの後始末が終わって、今、社会は好景気なんだ。政府がそう言ってるんだ。大会社は、また右肩上がりで業績を上げなければならんのだ。それが社会のためなんだ。どんな手段であっても、安い商品を大衆に与え続ける義務がある。それができなければ、どんな大企業といえども、政府は存在を許さない。それには、多少問題は出るかもしれんが、絞れる所は絞らないと。町工場はコストが安いからね。」
サンタクロースは言った。
「少し待ちたまえ。」
サンタクロースは消えた。


政府の首脳は外遊を終えて、官邸に帰ってきたところだった。執務室にサンタクロースがいるのを見て驚愕した。
サンタクロースは言った。
「大企業の社長が言っていた。社会のために、お金を稼がなければならないと。」
首脳は言った。
「この国が国債という形で、どれだけ借金をしているか知っているかね。好景気という隠れ蓑がなければ、私とて、この国の経済を維持することはできないのだ。」
サンタクロースは言った。
「この国の一国民から国のトップまで、全ての人の考えは聞いた。少し待ちたまえ。」
サンタクロースは消えた。


12月25日の明け方、街には奇跡のように粉雪が舞った。
そして、粉雪がやむ頃、替わりに振ってきたものがあった。
それは、その国の最高額の紙幣だった。
それは、やむことなく降り続けた。いつまでも、いつまでも、いつまでも、いつまでも...


サンタクロースの姿をした『銀河系生命体連合悪種判定委員』である彼は、宇宙船の中で赤い宇宙服を脱ぎ、白い髭にも見える呼吸装置を外すと、生命体連合本部への連絡通信を始めた。

「太陽系第3惑星の第5種知的生命体には、上から下まで全ての階層において、『お金』という不足物があることが判明した。私が属する恒星系には、『衣食足りて礼節を知る』という格言がある。この星の知的生命体の全ての個体および組織に足りない『お金』なるものを充分に与えて、『礼節』の有無を判断しようと考える。くりかえす・・・」


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帰郷

2006/11/07 20:29

25年ぶりに、大学時代を過ごした街を訪れた。

この休日には行こう、と決めてからのあのときめきはいったい何だったのだろう。
そしてその街を走るローカル電車の懐かしい車内で感じていた期待感は何だったのだろうか。
私のテリトリーだった駅へと降り立ち、待合室へ入ったとき感じた不思議な気持ちは。。。

こんな場所だったろうか?
駅前の場景は、何もかもが違っていた。自覚していなければ、自分がどこにいるのか全くわからないほどだ。
いつも通ったラーメン屋もない。何度も酔いつぶれた居酒屋もどこかへ行ってしまった。

気を取り直して、私が大学前半を過ごした下宿へ向かってみる。踏切は当然記憶通りの場所にある。そして道も私の思っているように続いている。ところが、その道の両側の建物が全く私の記憶とは違ったものになっている。そこにあったはずの銭湯はなくなり、いつも髪を切ってもらった床屋もない。緩やかに曲がって行く道だけが、記憶のままだ。定食屋があったはずの空き地を見て、「おおっ」と思う。この先に二年暮らした下宿があったのだ。

通りを進んで行く。もう下宿の時代ではない。小綺麗なアパートにでもなっているだろうとは予想していた。
ところがどこまで行っても、見覚えのある光景に出会うことができない。ついに、三叉路を発見して、もう下宿を通り過ぎてきたことを確信する。この三叉路に公衆電話ボックスがぽつんと立っていたはずだ。しかしそこに公衆電話はなく、道をはさんでコンビニが建っていた。引き返して、眼を皿のようにしてもう一度下宿を探す。わからない。そして立て看板を見つけた。「××労務士事務所」。プレハブのような小さな建物が敷地内にあり、あとの土地は駐車場になっていた。ここがあの下宿だったのか。しかし最後まで確信は持てなかった。

踵を返して、大学へ向かう。

踏切を越え、十字路をはさんだ向かいには、カラオケボックスの大きな建物。あそこにはいったい何があっただろうか? 思い出せない。いつも通った路を大学へ向かう。よく珈琲を飲んだ喫茶店「モンテ・ローザ」を見つけることはできない。通りを右に折れるとそこには小公園ができていた。そして左へ。その通りからはもう大学のグランドが見えるはずである。確かにグランドはあった。しかしそのグランドの向こうには、見慣れぬ大きな建物が立ちふさがって、当時は見えたはずの体育館、教育学部の校舎を隠している。

この通りを真っ直ぐ行って左に折れれば、私が三年過ごしたアパートがあるはず。しかし、そこには建物すらなく、空き地は駐車場になっていた。グランドに面していたはずの私が住んでいた部屋があったあたりに立ってみた。通り抜け自由だったはずのグランドは、ブロック塀で囲われ、右手に見えたはずの「農学部」も「理学部」も全く見知らぬ建物に変貌していた。それもそのはず、「農学部」は「農学生命科学部」に、「理学部」は「理工学部」になっていた。驚いたことに、見慣れた「理学部」の建家の場所には「理工学部」という11階建てのビルが建っていた。

ここに至って、私は気付いた。

私は、「あの頃」を探していたようだ。見慣れた街角を曲がって、見慣れた顔の友達が現れることを。そして、その後ろから、若き日の自分が顔を出すことを。

しかし、足を棒にして歩き回っても、そんなことはなかった。
時は、街を、そして大学を全く見知らぬ場所に変貌させていた。それが25年という年月だった。

ふるさとは遠きにありて思うもの そして悲しくうたうもの
よしや うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや
ひとり都のゆうぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ そのこころもて
遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや


室生犀星の『小景異情』を思い出す。

なぜ私がこの地を長いこと訪れなかったかが、わかったような気がした。
そして、もし私がこの地を再び訪れる時は、旧友との再会の時しかあるまい、と、そう思った。

城址公園からのぞむ霊峰のみが、変わらずにそびえていた。それが救いだった。



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動きとリズムの芸術『大石真理恵さん』

2006/09/24 16:55

小椋佳さんのコンサートを聴きに行きました。私にとっては三度目のライヴになります。
一度目:小椋佳 「Dejavue〜赤のあとさき〜」2003:10月
二度目:小椋佳 「勝手の会」2005:9月
今回 :小椋佳 「未熟の晩鐘」2006:9月
初めて聴いた「赤のあとさき」の時から、気にはなっていたのです。すごい人がいるなあ、と。

今回、オペラグラスというものを初めてコンサートに持ち込んで見たのです。オペラグラス自体は、コンサートには必要ないもの、と結論したのですが、ひとつだけオペラグラスのおかげで貴重な体験をさせていただきました。
それが、前から気になっていた、パーカッショニストの大石真理恵さんだったのです。

私が聴いた三度全てのコンサートで、リズムセクションを一手に引き受けていた人です。単なるドラムスではなく、パーカッションというのは、多数の楽器を操る人であるというのは承知しておりました。しかし、、、

この人の場合、今回のコンサートツアーでは、使用する楽器数は80くらい(小椋佳氏談)になるそうです。
二十曲にも及ぼうという曲のひとつひとつに譜面はあるのでしょうが。。。
私が今回、途中からオペラグラスで捉えていたのは、ほとんどこの人の姿でした。

譜面なんて書けるものではないです、あの動きを見ていると。
そして、その動きがとても、とても美しい。
「流れるような」と言う言葉はこの人のためにある。
それでいながら、メリハリの効いた小気味よいテンポの良さを失うことがない。
しかも、彼女、その動きの中で、バックコーラスまで担当しているのですよ。

聴き惚れて、そして見惚れました。他の人の存在を忘れそうになった。(小椋佳さん、ごめんなさい)
調べてみたら、ソロCDも出ているようです。

大石真理恵さん。すっかりファンになっちゃいました。



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10年前の私からの質問

2006/08/20 21:15

10年前に愛していた人を、
今でも一番愛していますか?

10年前にがんばっていた仕事を、
今も続けていますか?

10年前いつも一緒だった友達は、
今も一番の親友ですか?

10年前泣いた映画で、
今も泣けますか?

10年前楽しみだった誕生日は、
今も楽しいものですか?

10年前に星を数えた夜空を、
時には見上げていますか?

10年前にしていた恋のように、
今もトキメクことはありますか?

10年前になりたかった自分に、
今なっていますか?

10年前に探していた自分の居場所は、
みつけられましたか?

10年前の正義感や情熱を、
今も持ち続けていますか?


この10年間、精一杯生きましたか?



『神はサイコロを振らない』より



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核被害

2006/08/06 11:29

また、原爆の日がやって来た。
風化を危惧する声が多い。それはもちろん大切なことだが、ひとつ言いたいことがある。

1999年9月30日が何の日か覚えている人はいるだろうか?

茨城県那珂郡那珂町(東海村と思っている人が多いと思うが実は違う。現在はひたちなか市。)で「臨界事故」が発生した日である。
私は、事故現場の近くに家を持っている。が、この事故が発生した時は、東京に単身赴任しており、東京でこの事故の第一報を聞いた。そして仰天し、家族を心配した。10月1日は、会社でも仕事にならず、ネットのニュースを見続けた。それには理由がある。
順を追って話そう。
まず、「臨界」と聞いて、何の先入観もない私は、事故発生現場は、東海村の原発施設内の事故であると思った。
これは当然のことである。私は、大学で原子物理を学んだ人間である。「臨界」という状態が原子炉外で発生するものとは全く考えてもみない事だった。(但し、悲しいことだが、軍事目的を除く。)

予備知識のない人のために、「臨界点」とは、どのような状態であるかを説明する。
厳密には、「核分裂反応を起こしている中性子の数が一定の(時間変化がない)状態をいう」ということになる。
核分裂反応を起こしている」という事に注意してもらいたい。中性子の数が増えないで、核分裂反応を起こしている、という事が重要だ。
つまり、「臨界点」を越えてしまうと、核分裂反応が、連鎖反応を起こす。連鎖反応とは、核分裂によって発生した多くの中性子が、更に核分裂を誘発する状態だ。原発の原子炉内でも、もちろんこれを利用してエネルギーを得ている。しかし、原子炉内では、制御棒という中性子吸収物質によって、核物質が「臨界点」を越えないように慎重に制御されている。

大まかには理解してもらえただろうか。つまり「臨界事故」とは、核物質が、「臨界点」ないしは「臨界点を越えた」状態になることを言う。原子炉内では、「臨界点」ぎりぎりの状態が制御されている。従って、原子炉内で起こる「臨界事故」は、核分裂反応の暴走すなわち、「臨界点を越えた」場合しかない。
この事実を知れば、誰だって「臨界事故」とは、原子力施設内(それも原子炉)でしか起こらないと思うのが当たり前だ。そして、それでも大変なことだ。(チェルノブイリを考えてみよ。)

ところが、JCO事故は驚いたことに、狭義の意味の原子炉施設内で起きた事故ではない。少し大げさに言えば、人が住んでいるすぐ近くにある町工場で起こった事故である。しかも、国道6号線のほんの少し脇なのだ。
JCO事故は、「臨界点」の状態が約20時間程度続いた。
これを読んでいるあなた、そうあなたは、このとき、このニュースをどう感じただろうか。「なんか茨城で原子力発電所の事故があったみたいだなあ。」くらいではなかったか?

とんだ認識違いである。
一歩間違えて「臨界点を越えて」いれば、茨城県で核爆発が発生したかもしれないのだ。
対岸の火事ではない。状況の深刻さを知った、水戸在住の私の上司は、その瞬間に、家族を放り出して車で土浦近辺まで逃げたそうである。笑える話ではない。それが正常な反応だ。国内初の「臨界事故」であり、世界的にも、原子力施設外の「臨界事故」は例がない。

自衛隊は、出動要請を拒否した。(解る人には事の重大さが解っていたのだろう。)「臨界点を越える」ことを押さえるために、事故現場の冷却水を抜きに行った(行かされた)のは、JCOの管理職以上で、既に子どもを持っている人だったという。

考えようによっては、原爆より恐ろしい。ウランの濃縮という作業が、まるで味噌・醤油を作るような感覚で行われていたのである。

これが唯一の被爆国のやることだろうか。
広島・長崎のある意味での「事件」は繰り返されてはならない。しかし、このように杜撰な「核の人災」への日本人の関心の薄さも絶対に風化させてはならない事実なのである。



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日本沈没2006

2006/07/29 22:22

これから、映画「日本沈没」(2006年版)を観ようとしている人にご注意
(1)小松左京氏の原作を読んでから観た方が面白いと思います。
(2)ネタバレになりますから、以降の駄文は観てからお読みになってください。




いやあ、ぶったまげました。(言葉通じてますか? 「非常に驚いた」という意味です。)

だって、映画の冒頭で、いきなり日本が沈没しちゃうシミュレーションがCGで出てきちゃうんだもの。
我々の世代なら、小松左京氏の原作の「日本沈没」を読んでいる人が多いと思うんですよね。だから驚くんですよ。

小松氏が、本当に書きたかったのは、日本民族が日本という島国から出てしまったら、いったい世界の中でどうなるか、というシミュレーションであったことは、氏が直接語っていることです。
そのための手段として、氏は、なんと日本列島を沈没させることを思いついたというのが真相なのです。SFとしては、これは力業ですよ。いったいどうやったら日本列島を科学的に納得の行く形で沈ませることが出来るかについて、氏はものすごく苦労したと話しています。
故竹内均氏(地球物理学者として、そして科学雑誌「ニュートン」の編集長として活躍していたが、2004年逝去。)の協力を得て、日本列島を沈没させるからくりが作られたことは有名な話です。

つまり、原作「日本沈没」は、日本民族が日本列島を失ったらどうなるのかを描こうとした壮大な物語の「第1部」だったのです。
従って原作は、当然のことながら、日本列島が水面下に没してしまうメカニズムと過程を、読者に疑似体験させることに主眼が置かれているわけです。
但し、氏の事でありますから、その中で、政治・外交・大衆心理といった人文学的要素はもちろん、地球物理・地震学・気象学、果てはカオス理論や量子論まで登場する壮大なシミュレーションの上に、個人としての田所博士、小野寺、玲子をはじめとする様々な人たちの物語を闊達なストーリーに乗せて見せたことは言うまでもありません。単なるパニック小説では決してないのです。

ところが、、、
「日本沈没2006」は、田所博士が、日本列島の『沈没』を救う科学者として描かれている! 驚くでしょ。
これは、小松左京版「日本沈没」とは根本的に異なる物語です。

私の感想を言うと、登場人物の役割に当てる焦点がぼけていて、誰が主人公で、どんな活躍をさせようとしたのかよく理解できなかった。特に(草g君には悪いですが)小野寺なんて、最後に一発花火を打ち上げるだけの役ですよ。途中なんて、ただウロウロしてるだけ。玲子(柴咲コウ)が、何であんな小野寺に惚れるのかさっぱり理解できない。田所博士(豊川悦司)だって、発破工事の現場監督みたいだし。
ただ、原作を知ってる人は、パロディとして見ると面白いかもしれないです。
唯一感心したのは、日本映画の特撮も結構いい線いってるなあ、ということくらい。(CGのおかげでしょうが)

けなすばかりになってしまいましたが、首相(石坂浩二)が口にした、日本沈没という事態に対し「何もしないのが最良の策なのかもしれない」というセリフは、原作にもあります。(原作では、研究者が出した案の中に、「何もしない」というのがあって、首相がそれに驚くのですが。)

関連して、日本民族の特殊性というのは、「日本列島あっての民族」という点だと、私は思うわけです。日本列島という、時に優しく、時に厳しい自然の中で育ち、たとえそこから出て行くことがあっても、なんとなく必然的に挫折して、元の列島へ戻って来てしまう。太古よりそれは変わっていないように思います。そして世界においては非常にシャイで人見知りの強い民族で、本質的にグローバル化が下手、そう思うのは私だけでしょうか。(鎖国なんて、驚天動地の政策をとった国なんて他にあります?)
なんだか、日本列島から飛びだしても本質的に日本人は日本列島へ戻ることを前提としている気がします。

でも、私はそんな日本が、日本人が嫌いではないです。良くも悪くも単一民族で、過去から現在に至るまで同じ土地に住み、外部から入ってくる、良きもの悪しきものにも完全には染まることなく、独立心を失わない日本人が私は好きです。

養老孟氏が言っていました。「一番良くないのは、『原理主義』である」と。『原理主義』というのは、自分だけが完全に正しい、という極端な思想です。だから違う考えを持つ相手は全て排除すべき敵になってしまう。日本人って、そう言う思想が希薄だと思いません?

さて、小松左京氏の「第2部 日本漂流」はいつ出版されるのでしょうか。


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粒子反粒子振動

2006/05/19 22:43

『問わず語り』に、こんなタイトルでものを書いていいのだろうか?
この時点で、もう読むのをやめようとしている人がいるに違いない。

ちょっと待った!

「素粒子論」の最前線を知りたくはないか?

というわけで、新聞記事を紹介する。極最近の話題である。

【毎日新聞、2006/4/13】
高エネルギー加速器研究機構(茨城県つくば市)などの国際共同実験グループは12日、素粒子の一種「Bs中間子」が、反粒子(反Bs中間子)に変化したり、元の粒子に戻るのを超高速で繰り返す現象「粒子反粒子振動」の観測に初めて成功したと発表した。ノーベル賞の有力候補と目される物理理論「小林益川理論」に合致する結果が得られたという。 グループは陽子と反陽子を衝突させて生まれたBs中間子の崩壊過程を02年から観測してきた。その結果、粒子と反粒子は毎秒2・8兆回の超高速で変化を繰り返していることが判明した。どうだ、まいったか〜〜!

最後の一文は、私が付け加えた洒落だが、他は紛れもなく新聞記事である。限られた研究者が読む論文の一部ではない。にも関わらず上の記事がほんの少しでも理解できた人がいるだろうか? というより、この記事を書いた人、ホントに内容を理解して書いてます? 突っ込むわけではないけど、「中間子」はクォーク二個からできているので、『素粒子の一種』ではないぞ。
従って、あなたがこの記事を読んで理解できなくてよい。もし理解できたら、是非私に教えてほしい。

さて、実はこの記事は、私の親しい友人が教えてくれたので、私もするっと避けて通るわけにも行かず、一応調べて見たのである。以下が、その結果である。

【量子力学と粒子反粒子振動】
量子とはなにか?
古典物理学には、『粒子説』と『波動説』があり、どちらとも決着が付かなかった。
その後、量子論が登場して、量子を『粒子でもあり、波でもある』というふうに解釈するようになった。(「なにはさておき量子論」を読んでくださっている皆様には既にご承知のことである。)

それでも直感的な物質感としては、量子を基本的には『粒子』と見なす立場(『粒子ではあるが波の性質を持つ』と解釈する立場)が優勢なのであった。
さて、ここからが説明しづらいんだよなあ。
『粒子ではあるが波の性質を持つ』って、そりゃどんなもんじゃ、ここへ出して見せてみい、という人が必ずいるのである。だって私だってそう思ったもの。
「なにはさておき量子論」では、ここで波動関数というものを持ち出して、量子を波として見るときは、「二乗すると存在確率になるところの幽霊波」と説明したのであった。幽霊だから見えないのである。
これをもう少し直感的に表現したのが、『粒子反粒子振動』なのである。(多分)
『粒子反粒子振動』とは、『粒子』と『反粒子』とが相互に転換する現象である。(そのまんまである。)
ところが、『粒子反粒子振動』の意義は、単に粒子と反粒子が転換することではない。それだけなら『仮想粒子』という概念などから既にわかっていたからだ。重要なのは、この転換が周期的に起こることである。
転換が高速に周期的に起こるということは、この現象が振動をなすということを意味する。
従って、「量子の存在そのものが振動をなす」ということから、「量子の存在性そのものが波動をなす(らしい)」ということが推察される。

これを読んでいるみなさんが、そろそろ嫌になってきたことも推察される。そこで急いで次の二つを解説する。

【粒子反粒子振動】
粒子反粒子振動は、これまでにK中間子とB中間子のみで観測されてきた。これらはそれぞれストレンジクォークとダウンクォーク、ボトムクォークとダウンクォークが結合した中間子である。ボトムクォークとストレンジクォークの結合でできたBs中間子では振動数が高く、観測が困難であることが「小林益川理論」で予言されていた。今回のBs中間子の粒子反粒子振動は、振動数約2.8兆ヘルツであり、これはこれまでの実験から得られた予測値と矛盾せず、はるかに測定精度が高い。

【小林益川理論】
物質の基本となる素粒子論を記述する理論のひとつ。1973年の発表当時には、基本粒子であるクォークは3種類のみが発見されていたが、粒子と反粒子の性質の違いをあらわす「CP(チャージ・パリティ)対称性の破れ」という現象を説明するために6種類のクォークの存在を予言し、1974年にチャームクォーク、1977年にボトムクォーク、1995年にトップクォークが発見された。

わはは、完璧だ。実にすっきりした。腑に落ちるとは、このことだ。

いーえ、わかりません。スワヒリ語の古代史論文より理解困難だぞ。
おいこら! 最初の記事を書いた新聞記者、ちょっとここへ来い! 私の前でちゃんとあの記事が意味するところを解るように説明してみい!
調べれば調べるほど解らなくなるんだぞ。ある文章で解らない単語を調べると更に理解不能な文章が現れるんだぞ。最後の【小林益川理論】なんて、【粒子反粒子振動】となんの関係があるのかさっぱり解らんぞ。

慢心だった、「わかるまで素粒子論」だなんて。これはもしかすると、私のライフワークになってしまうぞ。
仮に私が80まで生きるとして、あと32年。多分そのくらいでは終わらねえなあ。。。


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プロジェクト×

2006/04/20 22:15

某公共放送で、火曜日に放映されていた「プロジェクトX」という番組を知っているだろうか。一時期、中島みゆきさんの「地上の星」と共に大ブームをまきおこしたから、きっと知っていることだろう。

ものには必ず陰と陽、正と負がある。「プロジェクトX」という番組は、その輝ける陽・正のプロジェクトを紹介した番組である。これを言い方を変えてみると、「様々な立場にある人が、その所属する組織の中で自分の役割をよく認識し、それを全うすれば成し遂げられないことはない、という素晴らしい事例」を紹介した番組であったと言うことができると思う。

しかし、光あれば影あり、世の中には必ず陰・負の存在もあるのだ。そう、陰・負のプロジェクトの存在である。世の中には、大失敗に陥ったとんでもないプロジェクトや、うまく行ってもささやかな結果しか出なかったプロジェクトが数限りなく存在したし、おそらくこれからも存在し続ける。むしろ、陽・正のプロジェクトより何倍も、陰・負のプロジェクトの方が多いはずである。しかし、私には、そんなダメプロジェクトに参画した人だって、その努力やプロジェクトに賭ける思いは、本質的には、成功した人々と比べて劣っているとは思えないのである。

失敗した原因を分析し、再発を防ぐ試みは、かならずなされる。実際にそれで改善されなければ、失敗プロジェクトは救われないだろう。しかし、それにもかかわらず、これからも、失敗プロジェクトは存在し続けるはずである。人間の『さが』という奴だ。

頑張ったから成功したものを「プロジェクトX」はとらえているのだと思うが、頑張ったのに成功しなかったプロジェクト、頑張ったのに地獄の様相を呈したプロジェクトもいっぱいあるのだ。

画期的な事業を実現させてきた「無名の日本人」を主人公とする「組織と群像の知られざる物語」は、21世紀の日本人に向け「挑戦への勇気」を与えることができたと思う。それは否定しない。そしてそれを支えた素晴らしいリーダーの存在も認める。

しかし、同じ「挑戦」をしながら、一敗地にまみれて挫折していった「無名の日本人」もいっぱいいたことをわすれないで欲しい。一敗地にまみれるまでは行かなくても、所属組織のささやかなプロジェクトの一員として、番組で紹介される人に劣らぬ努力をした経験を持つ人はたくさんいると思う。私はこれを「プロジェクト×(ばってん)」と名付けたい。(タイトルの『×』は『X』の打ち間違えではなかったのだ。)

「プロジェクトX」を、『結果的に』画期的になってしまった事業に関わった人の単なる英雄伝として捉えるのではなく、総体としての人間の美しさが、様々な局面で個人に宿るという当たり前のこと忘れないでもらいたいのだ。

しょぼくれた「プロジェクト×(ペケ)」のメンバーであっても、番組中の誰かのように、「そのプロジェクトを愛し、それをなしとげるためには労苦を惜しまず、何日も徹夜したぞ!」と思っている無名の日本人の一人として。


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常識・非常識

2006/04/01 20:43

本日(4月1日)の朝日新聞朝刊の21面、「科学」のコラムである。手元にある人はちょっと見てもらいたい。
こんな見出しがあるはずだ。

  「光子コピーし、転送」成功
  
ちょっと一部を引用してみよう。

量子テレクローニングは、ひとつの光子(光の粒)が持つ物理的な状態を「近似コピー」して、二つの光子に転送する技術だ。この二つの光子は、双子のようにそっくりになる。別々の操作が必要だった転送(量子テレポーテーション)と、近似コピー(最適クローニング)を一度に実現できる。

これを読んで、「ほほう、最近の物理もなかなかやるじゃないか」とか「えっ、もう量子論の実用化もそこまで進んだのか」とか思う人は、はたして、いるのだろうか?(いたら、ごめんなさい)

これを少しでも面白いと感じることができる人がいたら、それはこのページの読者だけである。(すいません、宣伝しちゃいました。)
そして、昨日(か昨々日)の新聞には、「高校理科に『イオン』と『DNA』が復活」などと出ていたのである。

思うに日本で一番頭のいい世代というのは、おそらくそれは高校三年生ないし予備校一年生だ。(多分誰もが納得するであろう。)
ところが、例えば、この春理系の大学に合格した人でも、上の記事を理解できる人はまず存在しない。断言できる。

何度も私はこのこのページで書いてきた。「現在、世界を引っ張っている物理は、ニュートン力学や、マックスウェルの電磁気学ではない。量子論相対論である。」と。ところが、この革命的二大理論は、提唱から一世紀を経て、尚一般常識になってはいない。

なんかおかしいと思いません?

朝日新聞といえば、大学入試に一番よく出る新聞と宣伝しているが、上の記事を、本当に読者みんなが理解して読んでくれると思って書いているのか非常に疑わしい。

何度も言う。相対論と量子論の概念(数式ではない!)が一般常識になるようでなければ、この日本の発展はない。アメリカなら、物理好きの高校生なら、習わなくてもみんな知ってるぞ。

大学入試に出ることしか知らない日本の高校生は非常識であり、不幸だ。


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素晴らしいこと

2006/03/21 20:09

『日々』の方にもちょっと書いたが、「王ジャパン」の勝利について。

イチローが次のような意味のことを言った。
「勝利できたことはもちろんうれしいが、この仲間と今日で別れるのがとてもさびしい」

自分が、ひとり頑張っただけでは言えない。
まわりが頑張っただけでも言えない。
この言葉は、本当にそのチームを愛した者にしか言えない。

だから日本中の人が、チームジャパンになった。
単純でちっぽけな、ナショナリズムではないのだ。
一体となったチームに全てのひとが同化したのだ。

いみじくも、古田監督が言った。
「いやー、うらやましいな」
本音だと思う。

バレーボールのことを思いだした。

  あいつの上げたトス叩くときに
  心が通い合う、何も言わなくて



ひとりはみんなのために
みんなはひとりのために


だから、チームプレーは素晴らしい

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白い恋人たち

2006/02/26 11:46

私にとって最も印象深い冬季オリンピックは、1972年札幌大会。私が中学2年の冬でした。

   ♪虹の地平を歩み出て、影たちが近づく、手をとりあって
   ♪街ができる、美しい街が、あふれる旗、叫び、そして歌
   ♪僕らは呼ぶ、あふれる夢に、あの星達の間に
   ♪眠っている北の空に、君の名を呼ぶ、オリンピックと


トワ・エ・モアのこの曲を今も覚えています。

日の丸飛行隊の、金・銀・銅のトリプル受賞、氷の妖精ジャネット・リン。

ジャンプ競技は、今のようにラージ・ヒル、ノーマル・ヒルではなく、90m級、70m級と呼ばれていた。
ジャンプ後の姿勢も、今のようにスキーを開く形ではなく、そろえて飛んでいた。

スケート競技もフィギアを除けば、屋外で行われていたし、そのフィギアも、今のようにショート・プラグラム、フリーではなく、規定とフリーだったような気がする。規定って、氷の上に定規で線を引くような競技で、見ていて面白いものではなかった。

そして、何よりも競技のヴァリエイションが少なかった。最近はスノーボード競技が華やかだが、当時はモーグルやショート・トラック教義もなかった。

そして、カーリング。これも札幌大会では無かった種目だと思うんだけれど、面白いねえ。

そんな冬季オリンピック史の中でも、フィギア女子初の金メダル。日本の女性も技術だけでなく、体格的な美しさを持つようになったのだねえ。

札幌大会の1つ前、グルノーブル大会を覚えている人はあまりいないかもしれない。しかし、その記録映画『グルノーブルの13日』を覚えている人は多いはず。えっ、解らない? じゃあ日本公開時のタイトルを教えましょう。『白い恋人たち』。解ったでしょう。クロード・ルルーシュ監督、音楽は、フランシス・レイでした。私、この映画見ましたよ。一番最初に、へたくそな口笛で、レイの『白い恋人たち』のメロディーが流れて、えらく驚いた記憶があります。オリンピックの記録映画もフランスが作るとこうなるのか、と憧れを抱いたものでした。

なにはともあれ、荒川さん、おめでとうございます。


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校歌

2006/02/12 19:45

小・中・高・大と過ごした学生時代ですが、校歌を正確に覚えているのは、高校だけです。それも、新・旧二つある内の旧校歌のみ。(大学は、はっきり言って、校歌があったこともよく知らない。)

なぜ、明確にそう言い切れるかというと、とても素敵な歌詞だったから。新校歌に対し、旧校歌は、応援歌として用いられました。私は高校時代からバレーボールをやってましたから、応援される側であり、ホントは覚えていなくてもいいはずなのに、なぜか頭から離れなせん。
以下に、その歌詞をご紹介。
オホツク海の流氷は、欧露の空の雨雲か
北の鎮の北海を、寒風すさみ流る時
満目全て凍るなり、されど我らの校庭に
千古に青き茂みあり、常磐に茂れる林あり

北見の山の残雪は、満蒙支那の低気圧
我らの庭の茂みより、とどの林の彼方より
昇る朝日に映ゆる時、山も林もはた海も
北の鎮の蝦夷が島、満目全て光輝あり

オホツク海にほど近く、北見の山に囲まれて
高き理想にあこがるる、北見健児の意気を見よ
正義に燃ゆる情熱と、真理に忠なる勇気もて
世界の転機劃すなり 人生の偉業を劃すなり
ものすごい大時代的な歌詞でしょう。これをオリンピックなんかで歌ったら、間違いなく中国やモンゴルからクレームがつくに違いない。
だって、満蒙って、満州・蒙古ですよ。さらに支那って中国を蔑視した言葉で、今は使っちゃダメなんですってね。
さらに、いかにも北国らしいでしょ。寒風がすさむんですよ。満目全て凍るんですよ。

でも、忘れられない歌詞なんです。



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大雪の日

2006/02/02 20:08

この冬は記録的な大雪の地方が多く、雪害にみまわれている皆様には、心よりお見舞い申し上げます。

私が育った北海道は北見地方でも、年に数回は大雪がありました。今日はそのときのエピソードを。

冬、夜半から深々と雪が降り始めた、その朝。
目覚めて、外を見れば、膝くらいまで雪が積もっています。

内地のように、そのくらいの雪で交通機関が麻痺したり、ましてや学校が休みになることはありません。

そのような朝、必ず早〜〜〜く、登校する奴がいます。なぜ?

大通りは、もう除雪車が出て、車も走れるようになっていますが、学校の門から玄関までは、まだ雪の中。

早〜〜〜く登校したその男は、雪の中を、門から玄関までジグザグに歩き始めます。当然、雪の中にジグザグの細い道ができます。

不思議なもんで、そういう道が一旦できていると、後から来る者は、そこをなぞって歩きます。ジグザグの細い道は、徐々にジグザグの太い道になって行きます。

この話のなにが面白いか。

学校には、必ず遅刻寸前に飛び込んで来る奴がいるんです。
最短距離を駆け抜けたくても、道はジグザグ。それをみんなで校舎の窓から応援するんですねえ。

最初に道をつけた奴は、いつもぎりぎりに教室に駆け込む奴なんですけどねえ。


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聖夜

2005/12/10 16:55

ある年の12月24日と25日の間の夜。
突然ある街の歩道に、真っ赤な服を着、白い髭に覆われた者が現れた。

一人の青年が深夜の道を歩いていた。
ふと気付くと、自分の前にサンタクロースの格好をした者がいる。
それに目をとめたとき、サンタクロースが青年に話しかけた。
「何か望みはあるかね、かなえてあげよう。」
青年は少し考えて答えた。
「この世に本当にサンタがいるのかどうか僕には解らない。でもかなえてくれるというならお願いがある。私の『初恋』をある女性にとどけてほしいんだ。」
青年が話し終わると共にサンタクロースは消えた。


その女性はベッドで眠りについていた。そして、なにかの気配に気が付いて目をさました。
ベッドの脇にサンタクロースが立っていた。
「街を歩いていた青年からたのまれて、『初恋』を持ってきた。」
彼女の心に何とも言えない暖かい思いが流れ込んだ。顔には歓喜の表情が現れる。
「これで青年の望みはかなえた。君に何か望みはあるかね、かなえてあげよう。」
彼女は少し考えて答えた。
「サンタさん、私の叔父が今晩も、いえ今も仕事をしているかもしれないの。そう、まるで『クリスマス・キャロル』のスクルージみたいな人。叔父に『休息』を届けてほしいな。」
彼女が話し終わると共にサンタクロースは消えた。


初老の男が、彼のオフィスの机に向かってキーボードを叩いていた。
ふと気付くと目の前に真っ赤な服の男が立っている。
「君の姪から『休息』をあずかって来た。」
男が怪訝に思い、ディスプレイに目をやると、今晩中に仕上げなければならない、データの入力・解析は全て終わっていた。
男は驚愕とともに、姪の顔を思い浮かべ、自分を思ってくれた人がいたことを素直に喜ぶことができた。
「これで、姪御さんの望みはかなえた。君に何か望みはあるかね、かなえてあげよう。」
男は少し考えて答えた。
「私が、若く貧しかった頃、いつも通った定食屋のおばさんを思い出したよ。彼女はいつも金のない私によくしてくれた。私がこんなことを考えるなんて自分でもおかしいんだが、あのおばさんに、私の『感謝』を届けてほしい。」
男が話し終わると共にサンタクロースは消えた。


老婆が病院のベッドに横たわっていた。眠れないまま、何かを待つように天井を見つめていた。
ベッドの脇にサンタクロースが立っていた。
「事務所で仕事をしていた男から『感謝』をあずかって来た。」
「ああ、あの人。そう、私のことを覚えてくれていたの。」
老婆の表情が目に見えて輝いた。
「これで、彼の望みはかなえた。あなたに何か望みはあるかね、かなえてあげよう。」
老婆は少し考えて答えた。
「私には、今夜にもお迎えが来るの、いえ、解っているの。できるなら、今晩消える私の命を、生まれたばかりなのに、死んで行こうとする、この病院の赤ちゃんに届けてほしいの。私の『命』をあの赤ちゃんにあげて。」
老婆はそっと目を閉じた。老婆の体から抜け出したものを受け取ってサンタクロースは消えた。


生まれたばかりだというのに、点滴のチューブがつながり、ICUに隔離された赤ん坊がいた。
ICUの中にサンタクロースが現れた。
なにも言わない、目を閉じたままの赤ん坊に、サンタクロースは、老婆からあずかって来た『命』を与えた。
赤ん坊は、突然目をあけ、サンタクロースを見つめた。
「これで、老婆の望みはかなえた。坊やに何か望みはあるかね、かなえてあげよう。」
赤ん坊は何も言わず、小さな拳を握りしめ、ただサンタクロースに向かって笑顔を向けるだけだった。
そしてサンタクロースは消えた。


12月25日の明け方、街には奇跡のように粉雪が舞った。


サンタクロースの姿をした『銀河系生命体連合悪種判定委員』である彼は、宇宙船の中で赤い宇宙服を脱ぎ、生命体連合本部への連絡通信を始めた。

「太陽系第3惑星の第5種知的生物は、現時点では、報告されているほど悪種ではないと判断する。少なくとも最後に接触した新生児が大人になるまでは、絶滅処置を延期されたし。くりかえす。。。」


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理解できない

2005/12/01 21:07

昔々のお話です。
山の民と里の民そして海の民がおりました。

山の民は、狩りをして生活しています。
里の民は、農耕で暮らしています。
海の民は、漁をして日々をすごします。

はじめはそれで良かったのです。

ある日、山の民は猪を追って山を下り、里の民と出会いました。
そのとき山の民は、獲物の猪を担いでおりました。
里の民は訪ねます。それはなにかと。
山の民は、これは食べ物であると答えました。
驚いた里の民は、食べてみたいと頼みました。その変わり我々が食べている米というものを食べさせてあげようと。
山の民も米に興味を持ったので承知しました。
それで、山の民と、里の民はそれぞれの食料の調理の仕方を説明して、猪と米を交換しました。

そして、山の民と里の民は知ったのです。
猪を米を一緒に食べると、とてもおいしいことを。

同じ頃、里の民は塩を取りに海へ行ったとき海の民と出会いました。
そこで刺身のおいしさを知ってしまったのです。
里の民は海の民に米と魚の交換を申し出、それが受け入れられました。

そして、里の民と海の民は知ったのです。
米を魚と一緒に食べると、とてもおいしいことを。

必然的に里の民を介して山の民も海の民も加わって物々交換が始まります。

そのうちに、かさばる米や獣や魚を持って歩くのが面倒になり、一番日持ちのよい米との交換のために米券なるものを発明し、米券はいつでも米と交換できる条件で、獣や魚とも交換できることになったのです。
つまり米券なる嵩張らない紙で、米も獣も魚も交換できることになったのです。


ここまでは、私も解るんですよ。


さて、ある歳、飢饉があって、米が大不作になったのです。
そのおかげで、米券分の米が里の民の元になくなってしまいました。
ところが、山の民も、海の民も米だけは貯めていたので特に困ることなく、米券で獣や魚を交換して問題なかったのです。
そして里の民も、米券を新たに作って獣や魚を手に入れることができたので問題はなかった。

やがて、山の民は木の実を、里の民は麦を、海の民は昆布を手に入れ、それも米券で手に入るようになりましたとさ。
めでたしめでたし。

これが理解できない。経済って、何なの?


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今・昔

2005/11/13 10:03

我が家では、家庭内LANは使用しておりません。そこまで行くとサーバが欲しくなるから。
そういう訳で、ネットショッピングのために、週に一度くらい、コックピット(パソコンの前)へ現れるだけの娘(高2)が、オーディオを貸して欲しいと言います。

なんだろうと思ったら、友人からLPを借りてきたとのこと。娘の部屋にもオーディオ環境はあるのですが、CDやMDには対応できてもLP環境は私の部屋にしかない。(正確に言うと私の部屋ではなく、二階の居間なのであります。『自分の部屋』を主張すると家内が怒ります。)

あれほど、赤ん坊の頃に、バロックを聴かせ、「パッヘルベルのカノン」を子守唄にしたはずなのに、何を間違ったか、ハードロックを聴くようになってしまいましたよ。(今朝も、出かけるというので、「デート?」と聞くと、照れもせず「うん、遅くなるよ」と言う。)

それはどうでも良い話で、LP。私の部屋にはまだ昔のLPが聴ける環境があるのです。しかし、かかるのはやはり名前も知らぬどこぞのロックミュージック。

「録音してやるから後で自分の部屋で聴け」というと、「おとんのMDはLP録音できないから」と答えます。MDのLP? 知らぬ人にはこんがらがる話。(なんかそういうのがあるらしいです。)ここで何か言い返すと、「CD焼けるようにしてよ」と言い出すので、ロックミュージックに耐えるはめになった私。(これ以上、周辺機器が増えると我が『コックピット』が操縦不能になる可能性大と私は考えています。)

聞き終わった娘が、LPレコードをしげしげと眺めながら、「なんでこんな物から音が出るんだろう?」だって!
私に言わせりゃ、CDやMDから音が出る方が不思議だわい。


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小松左京氏

2005/10/23 20:15

私が作家「小松左京」と出会ったのは、高校1年のとき。
それまでは、お決まりのように星新一のシュート・ショートを読みあさっていた。それは同学年の友人達も同じだった。
ところが星新一だけでは物足りなくなった者が次に読み始めたSF作家が2グループに分かれた。一方は、筒井康隆であり、そしてもう一人が小松左京だった。どちらかと言えば筒井康隆派の方が多かったと思う。そして小松左京派も短編組が多かった。

私も最初に読んだのは短編集だったが、二冊目の『復活の日』にガツンと来た。寝る前に読み始めたのが、止められず一気に読了したのが朝3時頃だったか。ラストの場面、ぼろぼろになった主人公が南米を南へ向かって歩き続ける姿には不覚にも涙が流れた。読後も放心して眠れなかった。徹夜して学校へ行った。あの時の感動は二度と味わうことはできない。だからあの朝を忘れないようにしている。

それから私は、小松左京を読破し続けた。追いついてしまうと、書いてもらうのを待つしかなかった。

小松左京のすごさ、それは科学の目と社会の目をどちらも持った作家であると言うこと。小松左京は、現代をシミュレーションできる恐るべきリアリティーを持っている点にあると思っている。不思議に思う人が多いと思う。
日本を沈没させてしまうような、荒唐無稽な話を書く人がなぜリアリティーなの?

荒唐無稽なのは、設定だけなのである。

「もし、人類が滅亡するような細菌兵器ができてしまったら」『復活の日』
「もし、日本がなくなってしまうとしたら」『日本沈没』
「もし、世界中で数人の人間を残して他の全ての人が一夜にして消えてしまったら」『こちら日本』
「もし、ある日突然東京が正体不明の物質で覆われ音信不通になってしまったら」『首都喪失』
「もし、地球めがけてミニブラックホールが飛んできたら」『さよならジュピター』

『日本沈没』や『復活の日』は、科学の目を徹底的に駆使し、その裏付けにもまったく破綻がない。それにも関わらず彼の真骨頂は、それが、起きた後のシミュレーションにある。きっかけだけは、荒唐無稽な現象に見えても、そこから先は、そんな場面に放り込まれた人間がいったいどうなるのかを緻密に描いたシミュレーションになっているのだ。ノンフィクションと言ってもよいほどに、微にいり細にいり、さもありなんといった状況が描かれる。

このような自然科学、人文学に確かな目を持った作家を私は他に知らない。このような目を持った人こそ、作家やマスコミの分野に必要な人材であるはずなのに、本当に少ない。

小松左京氏の還暦にあたって何か企画は? という問いに彼は酔っぱらった勢いで、彼が選んだ日本の十賢人を集めたシンポジウム(アルコール付き)を夢として語った。それが現実になったときの思いを彼は次のように書いている。

『嘘だ! と思わず叫んだ。酔余の「夢」として語った十人の「理想のメンバー」は、醒めて考えれば、とんでもない大物ばかりで、そのうちの二、三人、あるいは四、五人でもOKしてくれれば、望外の幸せだと思っていたのである。』

『人選の当初から、ひょっとしたら、こうなるのではないか、という予感はしていたのだが、はたしてこの三日間は、予想を上まわる「面白さ」になった。(中略)テーマはいささか危ういくらい「知的アクロバット」を演じていただきながら、全体として「抱腹絶倒シンポジウム」になったのである!』

このいきさつは、「宇宙・生命・知性の最前線(講談社)」という本になっているので、是非ご一読をお勧めしたい。

忘れられない作品の数々
『継ぐのは誰か』『果てしなき流れの果てに』『ゴルディアスの結び目』『虚無回廊』等々。

あなたは、小松左京氏をどう捉えていますか?


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月面バレーボール

2005/10/16 12:48

学生時代、「月でバレーボールをしたら、どういう事になる?」という話題で盛り上がったことがあります。
もちろん、アルコール入りの会話だったので話はかなり発散気味ではありましたが。

【前提1】月は重力が地球の1/6である。
【前提2】とりあえず、体育館を作って、そこには1気圧の空気があるものとする。

「【前提1】があるから、選手は地球上より6倍ジャンプできるんだよな。」
ということは、みんなすぐに考えつきましたね。トランポリンの上でプレーしているようなものです。ところが変なことを考えた奴がおりまして、
「当然ボールの重さも、1/6になるだろう。これでは、ビーチボールでプレーしているようなもんで、まともなゲームになるわけがない。」
そこで
【前提3】ボールの重さは地球の6倍で行う。
という前提ができた。これで、ボールの動きは地球上と同じになるはずです。

次に、こんなことを言い出した奴がいましたね。
「ネットの高さも当然6倍でないとまずいよな。」
「そうだな。」
「ちょっと待て。俺たちの身長は6倍になるわけじゃないんだぞ。ネットが6倍の高さなら、ネットを越えたスパイクはできんぞ。」
「じゃあ、ネットの高さは、どのくらいにしなけりゃならんのだ?」
「ジャンプ力だけが6倍になるんだから、理論的には、『地球でのジャンプ力』×6+『地球でのネットの高さ』になるんじゃないの。」
「なんだかそれじゃあ、ジャンプ力のある奴が地球より有利になるんじゃないか?」
「仕方がない、地球上で身長の高い奴が有利なのと同じだ。」
「でもそれじゃあ、ネットの高さ決められないじゃん。」
「とりあえず、『全選手の地球上でのジャンプの高さの平均値』×6+『地球でのネットの高さ』としておこう。」
というわけで、
【前提4】ネットの高さは、『全選手の地球上でのジャンプの高さの平均値』×6+『地球でのネットの高さ』

次に何を言い出すかと思ったら、
「フライングレシーブすると、地球の6倍とぶんだよな。だったら、コートの広さも地球の6倍いるんじゃないか?」
「議論は前と同じだ。俺たちの身長が6倍にならないんだから、6倍のコートは広すぎる。」
というわけで、
【前提5】コートの広さは、『全選手の地球上でのフライング距離の平均値』×6+『地球でのコートの広さ』
という前提ができました。

これでまともな試合になりそうだ、と安心したのですが、こんなことを言い出した奴がいまして、
「ジャンプして、地球の6倍飛べるのはいいが、最高点からコートへ降りるまで、6倍時間がかかるぞ。」
「跳び間違ったら降りて来られんわけだから、ブロックする側には不利だな。」
「ちょっと待て、ボールは6倍の重さなんだから、セッターが普通にトスしたら、地球上と同じ高さにしかボールは上がらんぞ。」
「・・・・・」

月面でまともなゲームをするにはどうしたらいいのか誰か教えて!


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隻手音声

2005/10/02 20:21

禅の公案(修行のための問題)に『隻手音声(せきしゅおんじょう)』というのがあります。

この禅の公案で最も知られているのは、手をパンと叩いて、「さて今鳴ったのは、どちらの手だ」というものでしょう。禅問答の代表とも言うべきものですね。

『隻手音声』もこれに似ていますが、もう少し言いたいことが多い気がします。

「片手(隻手)が鳴る音(音声)を聞いてこい」という公案です。

突き放された凡人は何をするのでしょう。ただじっと片手を眺めてそれがどうしたら音声を発するものかと、悶々と考えます。

ところが、「天地もはり裂けるほどの隻手の一声を古人は聞いている」、と老師は言います。

ここからは自己流解釈ですので、お間違えなく。

これは、所詮鳴るはずもない片手をただ眺めていても何も聞こえるはずはない。耳を澄まし、目をこらしてみろ。自然界には天地もはり裂けるほどの真実が満ちあふれているではないか。なぜそれが聞こえないのか。なぜそれが見えないのか。

といった意味かと勝手に思っています。

片手は所詮鳴るはずもない、花で言えば「造花」のようなものでしょうか。しかしその代わり、いつまで経っても変わらない、という利点があります。
ところが実際の自然界は変化(へんげ)を繰り返す。花で言えば「野の花」。つまり、生きた自然の姿である。ひとつの花が散ることにより、それが別の花を生む。生々流転。

老師は、自然界は変化するとき、大音声を発する、と言っているのではないでしょうか。

例えを音楽にすれば、楽譜が『隻手』であるとすれば、演奏は散っては咲き、その時に放つ『音声』と見る。それを聴くものは、いつも異なる様相を感ずる。

老師は、なぜそれがお前達には解らないのか、と問うている気がします。

これが、このごろ私がコンサートへ頻繁に足を運ぶ理由です。

さしずめ、演奏を録画したDVDなどは、「ドライフラワー」かな。(格調が一気に下がった?)


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出血サービス

2005/08/27 01:12

私の血液型は、AB型です。幸いにしてRH+なので、日本人だと約1割の人から血をもらうことができます。それでも、一番少ない血液型であることは間違いありません。

私の出た大学には医学部があって大学病院もありました。大学病院は血が足りない事態に陥ると大学へやってくるようです。教養部の第1講義室というのがうちの大学で一番大きい教室で、一年生の時はお世話になります(二年や三年でもお世話になっている人もままいましたが)。時に、この教室を目標に救急車がやって来ることがあったのです。飛び込んできた人は大声で叫びます。「AB型の人はいませんか!」

まあ血の気の多い若者でしたから、その時は手を挙げて進んで協力することにしていました。救急車に乗せられて大学病院で献血したことが二度ありました。これはもちろんボランティアです。最初の時はヤクルト、二度目の時は牛乳は飲ませてもらいましたが、帰りは車で送ってもらったこともありません。まあ暇な学生だから問題ないのですが。

前に書きましたが、三年生になってすぐ「自然気胸」で手術したことがあります。幸いにして輸血の必要はなかったのですが、人間なにが起こるかわからない、を痛感する経験だったので「献血は人のためならず」を実感しておりました。

とある平日の午後、講義が入ってなかったのか、さぼっていたのか忘れましたが、アパートで寝そべっていたら、部屋の戸を見知らぬ人が叩きました。話を聞くと、私の血液型がABであることを知っていて、身内の手術に血が足りないので助けて欲しいという話でした。二度ほど救急車で運ばれて大学病院で献血したことがあるので、その辺から話を聞いてきたものかもしれません。

一応快諾し、普通の車(救急車ではなかったような記憶がある)で大学病院に行きました。このときは、よほど緊急度が高かったらしく、献血の上限である600ミリリットルを献血しました。少なくとも献血後は0.6Kgは痩せたわけですね。それまでの二回は200ミリリットルでしたから、一度に三倍だったわけです。採決してくれた医者(看護婦さんではなかった記憶がある)が、「綺麗な血液だね」と言ったのが印象に残っています。目で見ただけで「綺麗」か「汚い」か解るのかなあ、なんて考えていた。

献血後、いつものように帰ろうとすると私の部屋を訪ねてきた人に、「これでおいしい物を食べてください」と、封筒を渡されました。これは想定外のことで、なんとなく断れずにもらって来ました。部屋に帰って封筒の中身を見てびっくり。なんと一万円札が! 一回五百円で飲み食いできた時代の一万円ですからね。おいしいものを食べるどころか、慎ましく暮らせば半月いやひと月暮らせたかもしれない。(私が大学に入ったときの賄い付きの下宿料は確か一ヶ月9800円だった。)

ビックリしたが、返そうにも返す人が解らない。献血時、誰に輸血するのかは原則的に教えてもらえないんですね。だから誰に輸血されたかは、病院に問い合わせてもわからない。

ちょっと額が額だったので、とまどいましたが、使わせていただくことにしました。(おいしいものを食べたか、飲んだかはご想像にお任せします。)

不謹慎にもこのとき、血を売って暮らしていけるなあ、と考えてしまいました。600ミリリットルを献血しても、平気でその日のバレーボールの練習に行った私でした。。。


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「強行遠足」の思い出

2005/08/03 20:56

私が卒業した高校には、「強行遠足」という伝統行事があります。(一応、道東では知名度の高い、北海道としては歴史を持つ高校です。)この行事、身も蓋もなく簡単に言ってしまえば、$70km$のマラソンです。
でも、$70km$という距離は、自動車で走ればなんてことない距離ですが、人間が自分の足で踏破しようと思うと、かなりきついものです。陸上競技のフルマラソンでさえ、$42.195km$なのですから。
伝統行事と呼ぶのは、この「強行遠足」が生徒だけではなく、先生はもちろん、父兄、地域が一体となってバックアップしているという事実があるからです。
この伝統行事が途切れずに現在も続いているのには、三つ理由があります。

【第1の理由】健康面での事故者が出ていないこと。
$70km$を普通の人がいきなり走ると、まず脱落するでしょう。しかし根性のある人なら頑張りすぎて倒れるかもしれない距離です。この面では学校が非常に気を使っています。この行事が行われるのは9月なのですが、6月ころから体育の時間はほとんどランニングばかりになります。とにかくひたすら走らされる。走って走って、その繰り返し。これは、体の鍛錬以外に、走ることに問題のある人を体育の先生達がしっかり観察しているのです。ですから言い方は悪いですが、この段階で問題のある人は、出場そのものが出来なくなります。その上、強行遠足の10日前に、$10km$の普通のマラソン大会があります。これは最後のリハーサルなのです。
もう一つ健康面で事故者が出ない理由は、その制度面です。$70km$を一気に走りぬける訳ではなく、$10km$を単位として関門が設けられ、その関門ごとに門限があるのです。従って、ある程度ペースを守って走らないと関門でタイムアウトしてしまうため、途中やラストの無理なスパートができないようになっているのです。かため走りという無理はできないのです。

【第2の理由】交通面での事故が出ていないこと。
今年は、仙台の高校で、ウォークラリーへ向かう生徒が酒酔い運転の車にはねられ死亡するという痛ましい事故がありました。たとえ競技中でなくとも、あの高校では来年からウォークラリーという行事はなくなるだろうと思います。
とにかく一度でも交通事故があれば、多分行事は終わりです。
$10km$毎の関門は、この交通事故にも一役かいます。なぜなら、べらぼうに人数がバラけることがないので、途中を先生、父兄及び不参加の生徒たちが、走っている人の安全をかなりきめ細かく監視できるのです。
もちろん、交通量の少ないコース、時間を選んではいるのですが危険はゼロではありません。それを大人たちが人海戦術で守っているのです。

【第3の理由】この行事の中止をOBが許さない。
高校に入りたての新入生は、この行事を前に非常に恐怖感を覚えます。$70km$を走ってしまおうということが人間業とは思えないからです。ところが、一度走ってしまうと、この行事の面白さ、達成感のとりこになります。それほど魅力のあるイベントなのです。だから、それを体験した人々が、それを止めることを許さない。
いまでも、私の高校の関東同窓会では、年に一回、皇居一周「ミニ強行遠足」というイベントがあるくらいです。

【エピソード1】
前述の関門の運営は、地域のボランティアです。その関門ごとに趣向を凝らしたサービスがあるんです。
ある関門では、豚汁を振舞ってくれたり
別の関門では、お汁粉を出してくれたり
食べ物でなくとも、走者が関門通過印を押印してもらっている間に、ジャージのすそをまくって、○ンメルツやエアー△ロンパスを足に塗ってくれたり

【エピソード2】
男子は、朝の4時半に学校をスタートします。女子はその1時間後にスタートします。女子は男子の半分の$35km$を走りますが、男子が走るコースを途中で折り返します。従って、男子の速い方は女子と走れる、という特典があります。
北海道の9月は晩秋です。出発するころはまだ夜です。夜明け前、走る我々の肩には霜が付きます。
トップランナーは、9時ころ帰ってきます。(約時速$15km$強で、関門でも休まず駆け抜けます。)
私は、三年とも500人中100番くらいでしたが、12時前後にゴールしました。
トップは、文字通り完走します。ゴールしてから、ゆっくり関門毎のサービスを受けに戻るのです。
私は、折り返し点の半分までは走り、あとの半分は、歩いたり走ったりという状態、厳密には完走ではありません。

【エピソード3】
はじめからびりを狙う集団が必ずいます。これ結構難しい。各関門に門限があるため、のんびりしていたら失格する。各関門をぎりぎりの時間で通過するのは大変です。各集団のびり競争が始まります。(ちなみにゴールの門限は午後3時、出発から10時間半が過ぎています。)

【エピソード4】
私は、一応体育会系のバレーボール部でしたから、普通の人よりは、普段から結構きつい練習をこなしています。それなのに、ゴールして一旦座り込んだら、もう立ち上がるのが困難なほどの筋肉痛に襲われます。お坊ちゃまは、家から車のお迎えが来ます。ほんとに辛い人は、タクシーで帰ったりします。私は、文字通り足を引きずってバスで帰りました。
次の日は、全く動けません。二階の部屋で眠ったら、一階へ降りることが人の助けなしには不可能になります。$70km$とは、それほどの距離なのです。

【エピソード5】
さて、この「強行遠足」の完走率(途中で歩こうが休もうがとにかく門限内に帰ってくれば完走と呼びます)はどのくらいだと思います? なんと95%を下回ることはありません。事前準備の偉大さを示す数値です。


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磁気有害説への反論

2005/07/28 21:15

私は、常々磁気の人体に対する影響に関する世論に対しては、反応が過剰すぎると考えています。その理由を以下に述べます。

【第一】
磁気を単独で考えることはできない、ということ。
「○ップ・△レキバン」のように、磁石を体に貼り付ける場合、および磁気毛布のように磁石を体にまとうような場合は、確かに磁気単独で考えられますが、これは意図的に人間が作ったものであり、(多分)人体に有害に作るはずはありません。

また、地球そのものが磁石であり、そのためいたる所に磁気が存在しますが、これは避けようとして避けられるものではなく、とりあえず無害と考えるしかありません。(ないと逆に大変なことになるのですが、その話はしません。)

一般に磁気は、電気と対に現れます。詳しい話は避けますが、これは電磁波に由来します。電磁波とは、磁気と電気が交互に発生して空間を移動してゆくものです。従って、磁気のみを単独に論ずることはできません。


【第二】
電磁波も、明らかに人体に影響を与えるものと、そうでないものに分けられる、ということです。
レントゲン(X線)も電磁波の一種であり、これを長時間浴びると人体に有害であることは知られています。もっと身近な例では紫外線も電磁波であり、長時間紫外線を受けると人間は日に焼ける、という影響を受けます。これらは、エネルギーの高い電磁波であり、人体を構成する分子、原子に影響があるため有害なのです。(これは、充分に科学的に確認されています。)

紫外線よりエネルギーが小さくなると、これは可視光線(いわゆる光)です。磁気が体に悪いと力説する人も、光が体に悪いと言いません。ただどんな光でも、程度問題で溶接する時の光のように極端に強いものを見つめると、眼によくない、というのは当然のことです。

これよりエネルギーが小さくなると、電磁波は、マイクロウェーブとか電波とか呼ばれるようになります。
身の回りのマイクロウェーブで代表的なのは、電子レンジです。電子レンジとは、食物中の水分を選択的に振動させるマイクロウェーブを大量に当てて、食品を温める電気製品です。
電波は、ラジオから携帯電話まで、エネルギーの異なる様々な目的に使用され、地球上を飛び交っています。

さて、今までに書いてきたことで、人体に影響を与えそうなのは、どんな現象でしょうか?

そうです。マイクロウェーブが起す発熱現象です。

実際に、電波やマイクロウェーブが、人体を若干暖める効果があることは、実験的に証明されています。しかし、現状世界中で使用されている電磁波には、人間の体温を眼に見えるほど上げるものはありません。(巨大な電子レンジを作って、そのなかに人間が入れば別ですが)
今までに出た電磁波有害説には、科学的根拠を示したものは実はないのです。統計的になんとなく病気になる人が多い、と言っているに過ぎません。その中には、「病も気から」という人も多いと思います。自分の家の目の前に高圧送電線の鉄塔があって、それが発する電磁波が体に悪いと言われたら、なんとなく気分が悪くなるのが人間ではないでしょうか?
電磁波過敏症という人がいるそうですが、可視光線過敏症という人は聞きません。(紫外線に弱い、というのは皮膚にあたえる物理的損傷ですから現象が違います。)これもストレスから来る神経症ではないかと私は考えます。

パソコンに向かうとき、「磁気防止眼鏡」や「磁気防止エプロン」などをつけなければ危ない、というのは論外です。磁気が体にいい悪い以前にそんなものは無意味だからです。海のなかに立って、目の前に板を置いたからといって、水は自分の後ろに来ないでしょうか?

レントゲン技師がつけている鉛入りエプロンは、指向性のあるX線をまともに浴びないためにつけるのであって、目的が違います。

だいたい、パソコンのモニターに気を使う人が、テレビを平気で見ているのがよく理解できない。パソコンに長時間向かっていると疲れるのは、肉体的・精神的疲労であって、物理的に体が影響を受けているわけではないですよ。


【第三】
この頃は話題にならなくなりましたが、電波から逃げ回る、謎の白装束の集団がいたことを思い出してください。どうも電磁波有害説には、宗教色がつきまとっているように感じられてなりません。
電波は見えないから、いっぱい浴びると危険だぞ!と言われると気になって、何かに頼りたくなるのでしょうか?
どうもこればかりは、何を言っても通じそうもないので、宗教的に電磁波は体に悪いと信じる人とは関わらないことにしています。


以上、電磁波有害説に関する心配は、「電磁波が人間に有害である」という科学的証明がなされた後にしたらいいでしょう。それまでは、どんなことをしても、飛び交う電磁波から逃げる手段はないのですから。


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故郷の冬

2005/07/23 21:05

私の捕れたところは、北海道。それも大雪山の懐です。

私の生まれた町、住所は、常呂郡留辺蘂町でしたが、その片隅の集落でした。(ちなみに留辺蘂って、読めない人が多いですよね。”るべしべ”と読みます。)生まれた場所は、留辺蘂町字富士見二股と言います。(北見富士と呼ばれる山が綺麗に見えたんです。)

こんな事を書いても、多分どこだか全然解らないですよね。地図を見てください。
赤い印のところが留辺蘂町で、限りなく大雪山に近いところが、私の生まれたところです。
このあたり、北海道でも有数の寒冷地です。冬場はマイナス20℃以下はざらです。時にはマイナス30℃以下ということもあります。朝、外で深呼吸ができません。空気が冷たすぎてむせてしまいます。『ダイヤモンド・ダスト』も生で見られます。

自然は豊かでしたが、10月なかばから4月いっぱい冬でした。半年にも及ぼうかという「冬」とうまく付き合って行かないと、とてもじゃないが暮らせません。

桜の咲く頃入学式なんて信じられませんでした。そして「枯れ野」が、俳句で「冬」の季語だなんて理解できませんでした。解るでしょ。

北海道の人は、雨戸の開け方を知りません。なぜって、雨戸なんてないんだもの。なぜないかって? もしあったら一冬雨戸が開きませんよ。解るでしょ。

北海道では、凍ってしまったら困るものを冷蔵庫に入れます。凍って欲しい物は、放っておけば一冬凍ってます。解るでしょ。

北海道では、六月末頃に運動会をします。梅雨がないし、10月ってもう寒くて運動会シーズンにはなりません。解るでしょ。

酒も凍ってしまいますので、容量で売らず、重さで売ります。「おーい、日本酒のおいしいところを1Kgくれ」てなもんです。嘘ですよ。

冬の間は、しゃべった言葉がみんな凍ってしまって雪に埋まってしまうので、春になるとこれが解けてうるさいのなんの。嘘ですよ。

私の生まれたところでは、雪合戦ができません。パウダースノーなんで、握っても玉にならないからです。水で湿らせれば、なんとか玉ができますが、これをぶつけ合ったら、殺し合いになります。これマジですよ。

かまくらも作れないので、どっちかというと、エスキモーの家みたいなものになります。これもマジですよ。

一番驚くことを最後に書きましょう。
学校で体育館を掃除するとき、冬場はぞうきんがけなんてしません。というよりやったらお湯を沸かしてぞうきんを絞っても、拭くかたっぱしから、ぞうきんが凍ります。これもマジ。ですから、よい方法があって、ぞうきんなんて使いません。バケツで雪をくんできて、体育館いっぱいにばらまきます。それをみんなでほうきで掃きます。最後に黒くなった雪を体育館の外に掃き出して終わり。この間雪は解けません。驚いたでしょう。

でも、これみんな約30年前の北海道の片田舎の話です。蒸し暑い夜、こんな話で少し涼んでください。


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なぜ空は青いの?

2005/07/16 19:05

こんな問いを発してみました。一通り意見も出たようなので、店主の方でまとめてみますね。

まず、私の解答。
太陽の光は何色に見えますか? ゴッホやピカソぐらいになると感性という色が付くので違って見えるのかもしれませんが、通常、太陽光は白色と言われます。 ご存じと思いますが、光には、白および黒という色はありません。様々な波長の光をまんべんなく含む光を私たちは「白」と感じ、光が出てこないものを「黒」と感じます。

太陽の白色光にはどんな色が混じっているのでしょう? ちょうどよい例がありますね。そうです、虹です。

虹は、内側から、『』の七色と言われますが、この七色説を最初に言い出した人は、かの有名なニュートンだそうです。実際には、もっともっと複数の色が連続的に変化しています。ですがここでは、ニュートンに敬意を表して、太陽からは七色の光が出ているものとしましょう。

上に書いた七色は、頭の方(紫側)が波長が短く、後の方(赤側)は波長が長くなっています。

光は、その波長よりあまりにも大きい粒子に対しては、反射してしまいますが、小さな粒子(の群れ)の中を走るときは、散乱するようになります。

可視光の波長は、空気分子よりも大きく、波長(色)によって、散乱され易かったり、され難かったりします。そして、波長が短いものほど散乱され易いということが言えます。
従って、波長の短い、紫・藍・青は、大気上層部で散乱されてしまう量が多く、大気中に散らばってしまうので、空は青いのです。高い山などで見る空が紺碧(藍)に近くなるのは、空気を通って来る距離が短いため、青より藍の散乱が多く見えるためです。逆に夕焼けが赤いのは、空気中を通る距離が長くなるので、赤までが散乱されてしまうためなのです。

大地には緑があふれて動物たちを癒します。そして赤というのは、人工的な感じがして、緊迫感や切迫感を私たちに与える色のようです。
光の三原色は、赤・緑そして青です。残った青が、空と海を象徴するのは当然とも思えます。

上記に書いた、光の波長が粒子より大きい場合は、波長に応じた散乱を行い、これをレイリー散乱といいます。そして、波長が粒子と同じくらいになると、今度はミー散乱といって、波長に関係のない散乱になります。雲のように、水蒸気が粒になっているような大きな粒子だと、波長に関係なく散乱するので白く見えるわけです。

レイリー散乱は、散乱する光の強度が波長の4乗に反比例するとか、レイリー散乱とミー散乱を分ける粒子径の境目とかは、マックスウェルの電磁方程式を解かねばならず、私にも解っておりません。


自分がいかにわずかのことしか知らないかを知るまでには、実にたくさんのことを知らなければならない。


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Re:アキレスと亀

2005/07/04 21:05

(タイトルがなんのことだか理解できない人は、前項を読んでからここを読んでくださいね)

「アキレスと亀」では、答えを書きませんでしたが、あのあとよーく考えてみたら以外と深いのかな、と思い直しました。

最も考えやすい答えは、
ゼノンは、アキレスが亀に追いつくまでを際限なく細かく分割しているだけであって、「いつまでも」追いつけないのではない。


多分、言葉にすれば、上のように考えた方が多いと思います。

私もそのように考えていました。 しかし...
本当に、「際限なく」分割できるのなら、アキレスは亀に追いつけないのではないか、と考え直しました。
なにを訳のわからんことを、と笑い飛ばしますか?

私なりの考えを以下に記します。

物理で、「質点」という言葉を聞いたことはありませんか? これは、「大きさのない物質」を意味します。もちろん便宜上取り入れた(数学的)概念でありまして、本当に「大きさのない物質」があって、それが質量を持つのなら、密度は無限大。これは、どう考えても、ブラックホールになってしまう。だから本当の意味での「質点」なんてないんです。

でもニュートン物理学では、この「質点」の考えなしには、自然を記述できない。「ラプラスの悪魔」も、ニュートン物理学を前提にしていたので、存在することができたのです。

いったい何の話をしているんだ、と苛立った方、もう少しお付き合いを。

しかし、ハイゼンベルクの不確定性原理により、「質点」は、絶対に存在できなくなりました。なぜなら、「質点」には大きさがないのだから、位置の不確定($\Delta{x}$)がゼロです。ということは、速度が無限大に不確定になります。(わからない人は、「なにはさておき量子論」を読んでくださいね。)

つまり、「質点」は、動いている速度が全くわからないことになる。

同じ事を時間で考えます。ゼノンが言ったようにもし、際限なく時間を細切れにできるのなら、その細切れは、だんだんゼロに近づくであろうと思われます。これは、時間の不確定($\Delta{t}$)をゼロにすることです。そうすると、その物体の持つエネルギーが、無限大に不確定になります。

というより、そもそも($\Delta{t}$)をゼロにすると、その世界は、静止世界です。全てが止まった世界では、当然、位置の不確定($\Delta{x}$)もゼロです。ということは、不確定性原理により、その世界の全てのものは、速度が不確定になる。すなわち止まっていられない。

どう考えても矛盾するのです。

よって、時間にも最小単位があって、これより分割できない長さがある、ことになります。ゼノンのいうようにいつまでたっても、ということはあり得なくて、だから、アキレスは有限の時間内で、亀に追いつくことができる。

まとめます。最小の時間内にいる物質は、点ではなく、線に近い。つまり向きをもっている。だから進むことができる。

うーむ、なんと哲学的な...

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アキレスと亀

2005/06/24 22:55

「パラドックス」という言葉を知っていますか?
辞書でひくと、「逆説」を見ろ、と書いてあります。そこで、今度は「逆説」をひいて見ます。そうすると

(1)通常の把握に反する形で、事の真相を表そうとする言説。
(2)相互に矛盾する命題がともに帰結し得ること。また、その命題。パラドックス。

と書いてあります。パラドックスという言葉が出てくるので、(2)が、パラドックスを説明したものなのでしょう。

相互に矛盾する命題がともに帰結し得ること、って何でしょう。「命題」とか「帰結」とか難しいことばが並んでいますが、これを更に説明することは止めましょう。何を言いたいのかわからなくなりそうだから。

そこで、これを説明するために、ギリシャ時代のゼノンという人が考えた「アキレスと亀」の話をすることにしましょう。
なぜ「アキレス」と「亀」なのでしょうか? 「アキレス」とは、ギリシャ時代に、とても足が速いと言われた人です。ちょっと時代遅れと言われるかもしれませんが、現代で言うと、「カール・ルイス」みたいな人です(すみません。現在の100m世界記録保持者を知らないもんで)。
それに対して亀、これはもう「兎と亀」でもおなじみの足の遅い方の代表です。

さて、そのアキレスと亀が競争をします。アキレスの方が速いのは明白なので、アキレスにハンデをつけます。つまり、先に亀が出発し、それをアキレスが追いかけるのです。具体的な数字があった方がわかりやすいので、アキレスは、10m/秒で走るとし、亀は、1m/秒だとし、100m競争をします。

まず亀が出発し、50秒後にアキレスが出発します。
単純計算で、アキレスは、100m走るのに、10秒かかります。亀は、100m走る(歩く?)のに、100秒かかります。アキレスは、亀が出発してから50秒後に走り出すので、亀が出発した時点を基点とすると、100m走りきるのに60(50+10)秒かかります。亀は、100秒かかるのですから、当然アキレスが先に100地点に到着するので、アキレスの勝ちです。アキレスは、兎みたいに途中で、昼寝したりしないので、上記は明らかです。

つまり100m走のどこかで、アキレスは亀を追い越します。・・・・・・・・・・(1)

ここまでが、正論です。
ところが、ゼノンは次のように言いました。

アキレスが出発した時点で、亀はアキレスの50m先にいる。
アキレスが50m地点まで行く間に、亀は55m地点に達する。
アキレスが55m地点まで行く間に、亀は、55.5m地点に達する。
アキレスが55.5m地点まで行く間に亀は、55.55m地点に達する。
アキレスが55.55m地点まで行く間に亀は、55.555m地点に達する。

上記の記述はどこまでも永遠に書くことができます。アキレスが前にいる亀の場所へ行くまでの間に、遅いといっても亀は、少しは前へ進むのだから。

従って、アキレスは亀にいつまでたっても追いつけない。・・・・・・・・・・・・・(2)

さて、(1)と(2)は矛盾してしまいました。これをパラドックスというのです。

答えは....

野暮なので書かないことにします。

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ききょう

2005/06/05 21:21

タイトルの「ききょう」は、「桔梗」のことではありません。そして「帰郷」でもなく、まして「帰京」なんかでもありませんし「奇矯」なんかもっての他です。今回、私が話題にしたいのは『気胸』なのです。

『気胸』とは、肺の一部が何らかの原因で破れて、肺と胸膜の間にあるすきま、つまり胸腔の中に、肺から空気がもれて肺が縮んでしまう病気(?)です。
外傷性の気胸もありますので、病気と怪我の境目みたいな状況ですね。
なんでこんなことを話題にしたかと言うと、私の人生にとって、九死に一生の思いでがあるからです。

それは、私が大学3年の初夏の頃。前に書きましたが、バレーボーラーでしたから、一応日々練習に勤しんでいた訳ですが、3年になって初めてレギュラーの座をつかむことができ、春の地区大会優勝を目指しておりました。ところがハプニングとは続くもので、チームのセンターエースが、指を脱臼して戦線離脱したと思ったら、セッターまで指を骨折。我がチームは飛車角落ちの状態で試合に臨まなくてはならなくなったのです。

それがどうした、と思う方、もう少し前置きにつきあって下さい。
それは、大会当日の朝でした。大会は、土曜・日曜の二日で行われ、土曜は午後からスタートだったので、私は土曜の朝は、自分のアパートで目を覚まし、地区大会が行われる町へ向かうため部屋を出ました。ところが、なんだか起きたときから背中が痛かったのです。それもかなりの激痛でした。しかし飛車角落ちの上さらに香車(私の実力から言ってそんなものでしょう)まで抜けるとチームが崩壊すると私は思い、辛いながらもみんなと合流、出発しました。
幸いと言うか、土曜日は一試合しかなかったため(ところが、いつもなら楽勝の相手にフルセット戦ってやっと勝つというありさま)まだかろうじて保ったのですが、激痛は、背中から胸へ突き抜けるような痛みに変わっていました。土曜の夜、痛みに耐え、なんとか眠ったのですが、朝早く目が覚めてしまい、体の左側を下にして横たわっていると、普通なら、「ドクン、ドクン」と聞こえる心臓の音が、なんと「ゴボッ、ゴボッ」と聞こえるのです。体を起こそうとすると、背中から胸へ抜けるような痛みはもう、体を動かせない状態にまで陥っていました。

キャプテンを起こし、「もう試合に出られる状態でない」ことを伝えると、「なんとか頑張れないか」との返事。気持ちは私も同じです。しかし体がいうことをきかない。死ぬ思いで着替えて、一応ユニフォーム姿で、会場へは向かったものの、体育館で、アップの駆け足で、3メートル走ってダウン。どうしたら良いか途方にくれていると、同じ大学の医学部バレー部の監督を務めていた6年生(医者の卵でしょうか)の人が、私の様子を見かけて、診察してくれました。

「これは、気胸みたいだなあ」と、その人は一発で私の病名を見抜きました。その人もどうしようかと考えていたようですが、観客席に、その6年生の知り合いの医者(その町の大学付属病院の内科医)を発見、早々に相談してくれて、内科の先生の車で、付属病院へ直行。自分は専門ではないからと、胸部外科の先生を呼び出してくれました。胸部外科の先生は私のレントゲン写真を見ると、「典型的な自然気胸、即入院」と判決を下すような診断。「私はここの人間でないので、ここで入院はちょっとできないのですが」の返事に、センセーはちょっと考え、あの医学部の6年生の方に、「君がつきそって行くという条件で、帰ることを許可する」とおっしゃいました。

大事な大会の監督をほっぽり出して、私についてくれるなど、無理だよなあ、と思ったら、その医者の卵先生は、快くそれを了解してくれ、私につきそって、私の大学の医学部付属病院まで行ってくれ、そこの胸部外科の先生に診てもらって、ベッドに空きがないから、胸部外科の良い病院を紹介する、という形で、市内の総合病院に移り、そこで、いきなり左脇の下から、チューブを突っ込まれ、肺から空気を抜く処置となったのです。

さて、私は一日に何人の医者に診てもらったでしょう?(それは数えてくれればわかります)
私の病名は、正確には「自然気胸」といい、生まれつき持っていた肺の気泡が、なにかのきっかけで破れたものでした。
発症したのが、土曜日ですから、普通の時なら、痛みを我慢して、病院へ行くのはせいぜい月曜日で、それも近くの内科へ行ったでしょう。(胸部外科なんて知らないもの!)しかし、病院へ行けたかどうか解らないのです。発症したのが左肺であり、初診の段階で、左肺が2/3くらいになっていたそうです。我慢していれば、呼吸困難ではなく、圧迫のため心臓が危なかったと聞きました。多分、月曜か火曜に、部屋で冷たくなった私の死体をだれかが発見してくれたでしょう。

さて、後日談。
【キャプテン】:お前が医学部の監督に診てもらわなかったら、俺はどんなことをしてもお前を試合に出しただろう。

【私に付き添ってくれた医学部の人】:電車の中で、君の肺に穴をあける事態にならなくて良かった。
(ちなみに、不測の事態にそなえて、応急処置の道具を借りていたそうです)

【最後に入院・手術してくれた先生】:もう半日来るのが遅かったら、助かってないね。

【私の代わりに試合に出た一年生】:先輩が気胸にならなければ、私のレギュラー入りはもっと遅かったでしょう。(こんにゃろめ!)

長くなってしまいましたが、人間どんなことで、危機を迎えるか解りません。本当に本当に気をつけて下さい。

最後に皆様の善意と偶然の出会いに、心より感謝。

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私たちの『コンクラーベ』

2005/05/25 21:31

※CMMIというのは、アメリカ、カーネギー・メロン大学のサービスマークです。
 著作権が、カーネギー・メロン大学にあります。
 日本では、独立行政法人 情報処理推進機構が、公式日本語版を提供しています。
 http://www.ipa.go.jp/software/sec/download/cmmi.php

ということをご承知の上、お読みください。

CMMIを日本語で言うと、「能力成熟度モデル統合」になります。
細かく説明すると、著作権法違反になりかねないので、以下は、私なりの解釈で話をします。

ある組織が成長を目指したいと思うとき、まず始めるのは、その組織が現状世の中で、どの程度のレベルにいて、今後何をすればいい方向へと進んで行けるかを知りたいでしょう。それをある意味、真に客観的に判断する手段がCMMIだと私は考えています。

CMMIの段階評価には、レベルが五つあります。
レベル1:初期
レベル2:管理された
レベル3:定義された
レベル4:定量的に管理された
レベル5:最適化している

CMMIを用いて、この段階評価をしてもらうことを「アプレイザル」といいます。

CMMIのよいところだと私が思っているのは、アプレイザル・メンバーには、評価を受ける組織の人間が50%以上入っている方がよい、という言葉に集約されます。
つまり、モデルは、組織外部に確固として存在するにもかかわらず、それを評定するメンバーに、その組織の人間が入れ、と言っているのです。不思議だと思いませんか?

CMMIの大原則は、単に、その組織のレベルを評定するのではなく、その組織が、モデルから見て、どういう「強み」を持っているか?どういう「弱み」を持っているか?を、その組織自体に納得の行く形で提示する、という事にあります。そのために、アプレイザル・メンバーに、その組織の人間が入るべきだ、と言っているのです。

今回のアプレイザルメンバーは七人でしたが、リード・アプレイザー(ボス)のみ外部の人で、残りの六人は全て会社の人間でした。
五段階のレベルは、プロセス・エリア、ゴール、プラクティスと細分化され、最終的な判断モデルである「プラクティス」は、なんと400以上になります。

評定には、「直接証明物」が必須、あとは「間接証明物」「インタビューによる裏付け」のどちらかがあればよいことになっています。問題は、「インタビューによる裏付け」なのです。アプレイザル・メンバーは、会社のいろいろな人に、まるで外部の人間であるかのように質問して、プラクティスが間違いなく実施されていることを聞き出さねばなりません。そして、その証拠は、アプレイザル・メンバーが、速記したメモなのです。インタビューは、一時間から二時間にも及び、インタビュー回数は、人を変え10回にもなります。ワープロになれきった人間が、自筆で、それも会話を書いて行くのは実に疲れる。書き落とせば、証拠がひとつ減るかもしれないのです。
そして、インタビューが終わると、チーム・レビューが始まります。これは、400を越えるモデル一個一個について、チームみんなで検討し、七人全員の総意が得られるまで、先に進みません。(外部から来たリード・アプレイザーの独断で決まるのではないのです。)だから、私は、これをローマ法王の決定会議である、「コンクラーベ」になぞらえたわけです。

最初は、なんだかんだ言っても、リード・アプレイザーが決めるのだと思っていました。ところが、リード・アプレイザーは、真に公平でした。彼は自分が了解できないときは、我々に疑問を投げかけます。「それを証明する資料はなんですか?」「それは、誰のインタビューのどこに出てきた話ですか?」と。

そして、そのプラクティスに関する、「弱み」と「強み」が検討されます。「弱み」があれば評定は失格の方向へ動きますし、「強み」が言える場合は、合格の方向へ動きます。「弱み」と「強み」は、あらかじめ、私たちがひろっておきます。(これを、ギャップ分析といいます。)「強み」だけ考えていればよいと思う人がいるかもしれませんが、実は自分たちで、「弱み」を見つけ、それを改善することで、組織を強くすることが本来の目的なのです。

ここからは、苦労話。この400個以上の評定、に加えて100を越える「弱み」と「強み」。仮に一個につき、五分かかるとしたら、(400+100)×5/60≒42時間かかります。ぶっ続けで、休みもなにもなくて42時間ですよ。途中に適度な休憩を入れると、その休憩時間だけで6時間になります。これで何時間になりましたか? そう48時間です。少なくとも1日6時間は眠ろうと思ったら、一日に使える時間は18時間、約三日かかることになります。もし個々の評定が一分ずつ遅れたら、それだけで500分=8時間遅れるのです。

いやー、疲れました。インタビューの速記だけで、腱鞘炎になりそうだったのに、その後の「コンクラーベ」。想像してみてくださいよ。

終わった時は、とてつもない疲労感と、充実感が残りました。評定の結果なんてどうでもいいと思った。後に残ったのは、単なるレベル評定のみではなく、大切な大切な、組織の「弱み」と「強み」なのです。

あとは、会社の幹部がこれをどう受け止めるかです。看板として、レベルだけ求める人には、我々の残したものは何の役にも立たないものでしょう。「弱み」を真摯に受け止める人だけが、この会社を良くしてゆくことができます。

このことに関してだけは、私は悲観的です...

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私にとっての『レイモン・ルフェーヴル』

イージリスニングという音楽の分野をご承知でしょうか?

私がイージーリスニングと出逢ったのは、中学二年の頃、お決まりのように、『ポール・モーリア』を聴き始めたのが始まりです。『ポール・モーリア』は知名度抜群なので、イージーリスニングを解ってもらうのには一番です。「恋は水色」「エーゲ海の真珠」「オリーブの首飾り」等の名曲は、必ず聴いたことがあると思います。

当時は、イージーリスニングなんて言葉はなく、ムード音楽とかなんとか呼ばれていましたが、とにかく私は『ポール・モーリア』で中学時代を過ごしたわけです。
そして、『レイモン・ルフェーヴル』と劇的な出逢いをしたのが、中学卒業間近だったか、高校に入っていたかの頃。『レイモン・ルフェーヴル』と言えば、「シバの女王」というのが定番になっています。これを聞いたことのない人は、絶対いないと思います。洋盤のロングセラー第1位だそうです。私は、「ふたりの天使」という曲で、『レイモン・ルフェーヴル』を知りました。それ以来、私は、彼の大ファンになりましたが、そのときは、単に一番好きなアーティストということで聴いていたように思います。

ところが、人間四十何年も生きていると、いろいろな目に遭います。「この現実から消えて無くなってしまいたい」ような思いを持ったのも一度や二度ではありません。そして、それは大概、「人間が信じられなくなったとき」あるいは「私にとって全く異質な信じられない人間とある期間付き合わなければならない事態に陥った時」でした。

ここでちょっと話題を変えます。私は、系統的に聴いたイージーリスニング・アーティストというと『ポール・モーリア』と『レイモン・ルフェーヴル』しかないのです。そのつたない知識と感性で言わせてもらうと、『ポール・モーリア・グランド・オーケストラ』から、グランド・オーケストラを取ってしまったら、そこには、華麗で感性豊かなピアニストが残ると思います。で、『レイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラ』から、グランド・オーケストラを取ったらなにが残るか?

私は、優しさと暖かさに溢れた笑顔が残ると思います。

話をもどします。「消えて無くなりたい」と思う都度、私の背後から、やさしく肩をたたいてくれたのが、レイモンの音楽でした。万言を尽くしても語ることのできない、優しさと暖かさに満ちた彼の笑顔だけが心に残りました。こんなに慈愛に満ちた音楽を紡ぎ出せる人がいる限り、私は人間を信じて生きて行ける、と教えられました。

21世紀に入り、『レイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラ』は、レイモンの愛息、ジャン=ミッシェルにタクトを譲りましたが、昨年も来日して、レイモンの音楽が健在であることを知らせてくれました。

そして、来年、また来日がきまったという嬉しいしらせが飛び込んできました。

レイモンの喜寿を祝うコンサートが企画されているとのこと。これは日本のファン全ての願いです。是非もう一度私たちの前で、「シバの女王」を振ってほしいものです。

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バレーボールな日々

正直に白状しますが、私は運動音痴です。
小学生の頃は、ドッチボールやソフトボールなどの球技は大の苦手。特に物を投げるのが不得手。いつも劣等感に悩まされていました。

私が中学三年の時です。ミュンヘンオリンピックがありました。(おっと、完璧に年がばれた)その前に、「ミュンヘンへの道」というテレビ番組がありました。オリンピックに出場する、男子全日本のひとりひとりを取り上げ、順番に紹介して行く番組でしたが、これってよほど自信がないとできないことですよね。いいだけ宣伝しておいて、本番で、早く消えてしまったら、とは考えなかったのでしょうか?松平監督はよほどあのチームを買っていたのでしょう。

本当は、男子全日本が、負けるとすれば、ソ連だと言われていました。予選の結果、ソ連とは決勝まで対戦はない。これはチャンスと、誰もが思っていたのに、あの日がやってきた。準決勝、日本VSブルガリア戦。生中継の時間は、日本は真夜中でした。楽勝かと思って見ていたら、なんと、1、2セットを連続で落としてしまう。相手エースのズラタノフが神懸かり的な調子の良さ。なにをやっても決められてしまい、日本得意の速攻も出ない。王古、横田のエースラインに頼り切ったトスは決まらない。第3セットも7対4と大きくリードしたのはブルガリア。松平監督の頭に銅メダルがよぎったといいます。
ところが、なんとかムードを変えようと起用したベテラン、南そして主将中村が大爆発。第3セットを取った日本は、ホントに全員バレーで奇跡の大逆転をします。試合が終わったとき、日本では夜が明けていました。
そして、決勝は、思いも寄らぬ東ドイツ。ソ連も準決勝で番狂わせの敗退。日本は得意とする東ドイツには1セット目は落としたもののその後は、危なげなく取って、金メダルを獲得したのでした。

これに、ガツンときました。バレーボールが、私の中でベスト・スポーツになっていました。高校入学を期に、バレーボール部に入ります。運動音痴の私が、とにもかくにも、スポーツを始めてしまったのです。
入部したその日に、フライング・レシーブの練習をさせられました。こんな高等技術は、全日本クラスの選手しかやらないものと思っていた私は、愕然とします。毎日毎日基礎体力作りのサーキット・トレーニング、初めてのフライング、スパイク練習。入った高校は一応進学校だったのですが、勉強そっちのけで、バレー漬けの日々。

北海道も道東。冬は日本有数の寒冷地です。練習中も氷点下、真冬日です。それでも、体から湯気があがります。みんな息を白くして冷え切った雪道を帰って行きます。でもこちらは、息が白いどころではない。フライングして、冷え切った床を滑ると、一気に汗が氷になって、練習着の胸に着きます。
なんで、あんな過酷な日々に耐えられたのか、自分でもうまくは言えません。ただ、やはりあの、日本VSブルガリア戦が頭にあったと思います。
いつしか、周りに、私が運動音痴であるとは見えなくなっていました。だが、生来の運動べたは、そんなに簡単に克服できるものではありません。必死になって、一途に打ち込んだ日々が、少しずつ自分に自信を与え、他の競技もできるようになった。結局バレーボールとのつきあいは、大学に入っても続きました。
まだ、あの日本VSブルガリア戦を超える試合ができたことはありません。


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至上の指揮者『西本智実さん』

先日(3月21日)、府中の森・どりーむホールに日本フィルのチャイコフスキーを聴きに行って来ました。
実は、日フィルが目的だったわけでなく、チャイコが聴きたかったわけでもないのです。

西本智実さんを見に行った、というのが正しい。(西村知美ではないので、お間違えなく)

西本智実さん、知っていますか?

世界へ飛躍した、ヤマトナデシコ指揮者です。
「たけしの誰でもピカソ」という番組に出演されていたのを見たのがきっかけで、大ファンになってしまいました。

ミーハーな面もないことはないのですが、彼女の音楽に対する姿勢に感動しました。
指揮者を目指した彼女は、単身ロシアへ渡ります。白夜の街サンクト・ペテルブルグ、寮住まいで、劇場からの深夜の帰り道に、疲れてアイスバーンに転び、立ち上がれずにいた彼女を助け起こしてくれた見知らぬ人に、また歩く気力を取り戻したといいます。
彼女がいう「神様みたいな人」イリヤ・ムーシンに師事し、生涯の師と仰ぎながら、出逢ってわずか数年で彼女の前を去ってしまった高齢の指揮者。

「人生の輝きは暮れゆく者に酷く、のぼり行く者に篤い」、と言った人がいます。彼女は暮れゆく師からペテルブルグ派の指揮法と、師の紡ぎ出す音色を学び、のぼり行く者になりました。

すらっと延びた手足、流れるような指揮は、会場の全ての人を魅了しました。生で、西本さんを見られるなんて、興奮した一日でした。アンコールの「アンダンテ・カンタービレ」には、しびれましたねえ。

クラシックは、深入りすると、収拾がつかなくなります。同じ作曲家の同じ曲でも、演奏する人が変われば、当然違うし、タクトを振る人が違えば、また変わるのです。それを全部聴こうと思ったら、とてつもない事になります。私もクラシックは、バロックに限り、それも、演奏は「イ・ムジチ」と、偏ったリスナーでした。

それが西本さんを知ったことで、またクラシックに一歩踏み込みました。これからは彼女が振る曲は、聴きに行くことに決めました。
彼女は、いろいろ役職を得ていますが、一番大きいのは、「ロシア・ボリショイ交響楽団・ミレニウム」の主席指揮者。従って大半をロシアで過ごしますが、日本へ戻ったときも、勢力的にコンサートをこなします。彼女は大阪の人なので、関西中心のコンサートになるのですが、東の方にいらしたときは、極力聴きに行こうと思っています。

次のコンサートは、すみだトリフォニーホール(5月16日)。楽しみ...

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自然の叡智?

新潟、スマトラ、そして北九州と立て続けの地震という過酷な自然災害に加え、多数の台風、19年ぶりの大雪が更に追い討ちをかけています。
そしてまた、愛知万博「愛・地球博」が始まりました。みなさま、冒頭に書きました自然の猛威をどのようにお考えでしょうか?

始めに、誤解されぬよう、ことわっておきます。これから書く文章は、「愛・地球博」に反対するものではありませんし、けちをつけるものでもありません、くれぐれも誤解なきよう。

天変地異は、地球が、人間に何かを警告しているのでしょうか?
愛・地球博のメインテーマは、「自然の叡智」だということですが、その本当に意味するところは何なのでしょう。

「古き良き時代」「日本の里山」は、守らなければ、失われ行くものです。それを守ろうという行為のテーマが「自然の叡智」なのでしょうか?
もしそうなら、人類は、一切の利便性を捨て去らなければならない。しかしそれは無理です。水洗便所しか知らない、今の子供たちに、汲み取り式便所に戻ることが可能か否かを考えて見れば答えはおのずと出るでしょう。循環型社会を目指すなら、水洗便所ではなく、汲み取り式便所でしょう。飛行機で故郷へ帰る早さを覚えてしまった人が、歩いて故郷へ帰ろうとするでしょうか?地球上の二酸化炭素の上昇を減らそうとすれば、乗り物は、荷車か馬でなくてはならない。今現代人が乗っているものは、全て二酸化炭素を増大させるものです。
多かれ少なかれ、人間の利便性を求めれば、確実に地球は、人間が住めない環境になって行く。
「愛・地球博」では、公に言っていないけれど、CMを見れば、「環境に優しい」「地球に優しい」という言葉が、氾濫しています。それを守るのが、人間なのだと。

人間という存在は、地球にとってそれほど特別な存在なのでしょうか。

地球は現在46億才といわれています。その46億年の間には、様々なことが起きたでしょう。そして、幾多の生物が、地球の主として繁栄し、闊歩したことでしょう。
そしていくつもの生物が滅びて行きました。例えば恐竜は、地球に落下した小惑星の起した大規模な環境破壊によって滅びたという説が有力です。このとき地球は破壊されたでしょうか?
そんなことはありません。「環境に優しい」とか「地球に優しい」というキャッチフレーズは、人間という、地球上に現れた一生物の驕りの言葉でしょう。本当は次のように言わなければならない。
「人間に優しい」又は「生物に優しい」と。

「地球に優しい」という言葉は、あまりにも地球を甘く見ています。はき違えた考えをしてはいけない。地球は、自然は、なにも人間をターゲットに猛威を振るっている訳ではない。
ただ、人間が人間として、この宇宙船地球号で生きて行くためには、「人間に優しい環境」「人間に優しい地球」を考えなければならないということ。「人間も自然の一部だ」とすれば、自然に合わないものは淘汰されてしまうということ。

ならば「愛・地球博」でもテーマは「自然の叡智」ではなく、「人間の叡智」でなくてはならない。人間が滅びたって、地球は平気な顔で、太陽の周りを回り続けるだろうし、新しい生物を生み出すだろう。
考えを改めよう。今問われているのは、人間という生物が賢いか、愚かか、なんだと思います。賢ければ、これから何千年も繁栄を続けるのだろうし、愚かなら、どこかで、この地球からいなくなる。そういうことです。
「愛・地球博」をやめろと言っているわけではありません。くれぐれも誤解のないように。

ただ、お祭りにまぎれて楽しむだけでは、意味がない。もう人間は、「自然の叡智」にたよらなくては、人間自身が住める自然と共存できないところまで来てしまっているのだから。

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我々の世代

この頃、思うこと。

私たちの祖父、祖母の時代は、戦争に責任を持つ世代、そして親は、戦争に青春を奪われ、その後の日本を立て直した世代、そして私たちの干支で一回り上は、いわゆる団塊の世代。

世代論をしたいのではない。我々の親は、壮年期に高度経済成長を担った世代だ。そして団塊の世代は、その一番の働き盛りで、バブルを謳歌した世代だ。

我々の現状といえば、そんな高度経済成長とバブルを生き、全てが右肩上がりで当たり前と思っている世代に使われる、哀しい中間管理職である。そして、学生時代には、運動に染まった連中に、ノンポリと罵られた世代でもある。私たちは、割と世代の変わり目で葛藤した世代なんだとよく思う。
私たちの下になると、ノンポリだらけで、誰もノンポリなんて言葉を知らなくなったし、職場でも、仕事は生活の一部と割り切れる世代になる。

我々は、そのサラリーマン初期に、仕事人間をあたりまえと教えられ、OJTと称する体験学習を強いられ、めちゃくちゃな残業や、趣味は二の次の生活をたたき込まれた。たしかにこの時期、給料は上がり続けたけれど...

ところが、バブルがはじけたちょうどそのころ、中間管理職にされ、バブルのつけと、大量に採用した新人たちの群れを任された世代でもある。会社幹部は、ほとんど無試験で採用した全社員の半数にも及ぶ若者を、我々に押しつけ、働きが悪いのは、教育している我々が悪いと叱る。もう世の中は、あなたたちの知っている働けば儲かる時代ではないのに、ハードウェアの急進化と価格破壊に、人間であるソフトウェアもついて行くと思っている。
私たちがサラリーマンになったころの課長って、組織的にもっと偉かったと思う。きちんと状況を把握して、適材適所に人を使うことが役目だと認識し、権限もそれなりに与えられていた気がする。でもそれは、自分の裁量で動かせる資金が潤沢だったからだ。

いま自分がその立場に立つと、「安くて質のよいものを作れ」、と言われたら、下を育てることなんてとてもやってられない。自分たちが働くしかない。そういう事だけはしっかり教育された世代である。現場には強いのだ。
で、現場を駆け回り、ふと気がつくと、自分はひとりぼっちになっている。入社したころ苦労を分かち合った仲間は、みんなインフレーションを起こした組織の中にちりぢりばらばらになり、そこで苦労している。自分たちが上司として尊敬した人たちも、バブルの崩壊とともに、どこかへ消えてしまった。本部長や重役は、みんな親会社から、天下って来たひとばかり。
育てるべき新人は、次々とやめて行き、モチベーションの下がった組織に、「実力主義」とかいう、方向違いの言葉が響くばかり。
「実力主義」のかけ声は、高い給料をもらって、あまりアウトプットを出さない人間を切り捨てるための言い訳にしかすぎない。
我々の世代は、あなたたちに使われ、あなたたちのためにアウトプットを出してきた。中間管理職になってもその事実はなにも変わらない。あなたたちは、中間管理職のための教育にもっと時間と金をさくべきだ。

これで、我々の世代が、バンザイしたら、あなたたちを養って行く世代は、その先にいないぞ。

愚痴かなあ?

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無理数と虚数が整数を作る話

今回は、数学です。

実数とは、数直線(目盛りのついた右にも、左にも無限に長いものさし)上の一点として表せる数値です。
実数の中で、私たちが歯切れよく数えられるものを、整数といいます。(ゼロ、マイナスもありです。)
無理数とは、分数で表せない実数のことです。(分数で表せるものは、無限小数にはなりません。)

無理数で多分一番有名なのは、「$\pi$」すなわち、円周率でしょう。”$3.141592・・・$”と無限に続きます。乱数(まったくでたらめな数値の並び)のモデルとして使われたりします。

次の関数を知っていますか?
$y=e^x$
ここで"$e$"を、ある特殊な無理数にしてやると、この関数を何回微分しても、形が変わらない面白い関数になります。このときの"$e$"を「自然対数の底」と言います。”$e=2.71828・・・$”です。
この関数の逆関数を、
$y=\log{e} x=\ln{x}$
と書いて底を暗黙に"$e$"とするので、「自然対数の底」といいます。ちなみに、この対数関数を微分すると、"$\frac{1}{x}$"になります。

さて、ここで、実数でない数値を考えます。(実数でない、ということは、数直線上にない数です。)
$i^2=-1$
となるときの"$i$"です。二乗して、マイナスになる数です。
中学で習ったはずの次の法則にあてはまりません。
(プラス)×(プラス)→(プラス)
(マイナス)×(マイナス)→(プラス)
だから、同じものをかけ算して、マイナスになる数は、存在しないはずです。でも書いてしまったから、それを虚数と言います。

このへんまでは、高校数学でやってるはず。だからそれを覚えている人も多いはずだし、物理学でも使われます。物理学で使われるということは、何らかの自然現象と関わっているのです。

ところが、次の式を見ると、大概の人はおどろきます。
$e^{+{\pi}i}=e^{-{\pi}i}=-1=i^2$
この式、不思議ですねえ。
(無理数"$e$")(無理数"$\pi$")×(虚数"$i$") = (整数"$-1$")
です。ここまで来ると、数学的というより哲学的ですね。

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独眼龍

遅れてきた英雄、「伊達政宗」のことです。

もうかなり昔のことですが某公共放送の大河ドラマに登場し、未だに大河史上最高視聴率を誇るのが「独眼龍政宗」です。そのドラマの解説では、信長、秀吉を長嶋、王にたとえ、政宗は、清原にたとえられていました。もちろん年齢差のことです。
確かに遅れてきた、ことは間違いありません。そして、(私の考えですが)信長をのぞいて、本当に天下をにらんだ戦国大名は、政宗しかいないと思うのです。

秀吉は、信長路線をある意味忠実に突っ走っただけで、信長の書いたシナリオが尽きてしまった時点で豊臣は崩壊しました。家康は確かに大物ではありましたが、信長を反面教師として見ていたふしがあり、もし信長が天下をとったらこうしたであろう、ということの完全に逆をやったのだと思います。(逆もまた模倣の一種、これも私の考えですが、信長が天下をとったら、日本が世界で一等国になるのが、300年は早かったと思います。そのかわり衰退も早く、多分現代でいうと、スペイン・ポルトガルのようになっていたかも。そのほうが現代人としては楽だったと言えるかもしれませんが。)
他の大名は、本気で天下を考えていたとは思えません。多分足利を復興し、自分は副将軍にでもなるか、ぐらいに考えていただけでしょう。

政宗がなぜ、天下をにらんでいたと言えるか? それは小田原参陣の顛末にあります。

九州を平定した秀吉はいよいよ坂東・陸奥を標的に入れます。当面邪魔なのは坂東の北条でした。そのため、秀吉は、全国の大名に小田原攻めへの大動員令をかけます。秀吉が天下人であることを全国に知らしめることをねらったパフォーマンスだったのでしょう。
ところが、政宗は、当初それに全く応じる気配を見せていません。秀吉と北条の対決の状況を見て、どっちにつくかを先送りにしながら、陸奥の平定に東奔西走していました。そして、名家芦名を落とし、佐竹を標的に入れるところまで来ていたのです。実際佐竹は、政宗を恐れて小田原へ行けなくなってしまった。

しかし、秀吉の動員令に従って、小田原に集まった(あるいは参陣を表明した)大名がことのほか多く、政宗の母(保春院)の実家、最上まで秀吉に従う状態となって、政宗も事の大きさに気づきます。
二度目の参陣を促す使者は、浅野長政でした。これはほとんど詰問に近い状態だったのに、政宗は人の良い長政をまんまと言いくるめて、帰してしまいます。
おそらく、この長政を子供の使いにしてしまったときに、政宗は腹をくくったのだと考えます。今出てゆけば、参陣が遅かったこと、陸奥ですき放題の切り取りをしたこと、打ち首の理由としては充分です。

また、家臣に参陣の決意を表明し、旅立とうとする直前に、実の母、保春院に毒殺されそうになり、母を切れずに弟小次郎を切っってしまうという大事件が起こります。これで、参陣が絶対的に間に合わない状況となります。
政宗の従兄弟、伊達成実は、どうせ伊達がつぶされるのならと、秀吉へ反旗を翻すことを求めます。対して忠臣片倉景綱は、伊達を残すために、秀吉との和解を政宗に説きます。

政宗は一応、景綱の言をいれた形で小田原へ旅立ちます。ところが政宗は、春先の雪と、近隣大名との敵対を理由に、わざわざ越後まで大迂回し、さらに遅れて、やっと小田原へたどりつくのです。小田原落城寸前のことです。
政宗の腹は、秀吉への降伏でも敵対でもなかった。政宗が言ったとされる「中途半な時期に参陣すれば、間違いなく首をとられる。小田原が落ちた後であれば、参陣しなかったという理由でやはり首を取られる。俺は、秀吉の機嫌が一番良い時期を待っていたのだ。」という言葉がそれを物語っています。つまり、政宗は、自分の首をかけて、秀吉と戦ったのだと言えるのです。

歴史的に政宗は、確かに遅れて来ました。しかし、遅れて来たことが幸いになることもあるのです。秀吉は、まちがいなく政宗より先に寿命が尽きるのですから。政宗がこれを視野に入れていなかったはずはありません。

政宗は、歴史上秀吉に初めて対面したと言われる石垣山での逸話の前日夜、家康を通して、秀吉と会っていたという説がありますが、私はこれを事実だと思っています。政宗は、あらゆる手を尽くして、秀吉に首を取られないよう戦ったのです。だから、私は、政宗の小田原参陣は、天下人秀吉との戦いであったと思っています。

政宗の話では、もうひとつ言いたいことがあります。それは、本当に政宗が天下人になることが出来たであろうチャンスのことです。が、それはまた別の機会にしましょう。

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映画と涙

久しぶりに泣きました。
もう何回観たんだろ、「砂の器」。次のシーンで誰が何を言うか、全部解ってるのに、涙出ちゃうんだよなあ。

本浦千代吉が、少年秀夫とさすらう旅とも呼べない旅。。
捜査本部、千代吉と三木謙一の手紙のやりとりを語る時、思わずハンカチを出して涙をぬぐう今西榮太郎。
和賀英良の写真を見せられ、人生唯一の夢である息子との再会をあえて拒む父、千代吉。
晴れ舞台で、ピアノを演奏しながら、父、千代吉を想う和賀。
それを舞台袖から、逮捕状を持って見守る今西と吉村弘。

全部解ってるんです。誰がどこで出てきて何をするのか。
それでも泣ける。

もしかすると、泣きたくて観るのかもしれない。

SFXが当たり前のようになった昨今。なんの特撮もなく、淡々とストーリーで観せる映画が減っています。中学校の頃、決まった映画館に、新しいのが掛かる度に必ず観に行っていた磁気があった。世間で騒ぎになるような映画は必ず他の小屋にとられてしまい、本当に二流・三流の映画しかやってなかった。
もう何を観たのか、どんな映画だったのか覚えているものも数本しかないけれど、あの頃に映画を観る目を養ったんだと、今解ります。

「砂の器」、橋本忍と山田洋次の脚本がいいんでしょうね。あまり原作を越える映画って知らないんだけど、そして松本清張には悪いんだけど、これは映画の方が間違いなくいい。

一年に一回くらい必ず観たくなって、部屋にこもります。涙ぽろぽろは、家内、娘にあまり見られたくなくて...

最近、テレビでリメイクされたらしいですが、全く見ませんでした。だから比較の批評はできないけど、野村芳太郎版を、また何ヶ月かしたら観たくなるんだろうなあ。

映画はやはり「観る」と書きたい。自分の意思と金で足を運ぶのだから。

すみません。今日は物理のこと考える気がしなくなっちゃいました。この余韻に浸って週末を終えたいなあ、と...

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都筑卓司氏

前にちょっと掲示板で話をしましたが、都筑卓司という方がおりました。過去形で書かねばならないことに限りない悲しみを持っています。
このページを訪れてくださる方には、知っている人も多いかも知れません。講談社の『ブルーバックス』という「科学をあなたのポケットに」をキャッチフレーズとするシリーズ本がありまして、その中でも物理の分野では、出す本出す本みんなベスト&ロングセラーになるという伝説的な物理学者でした。

私も、高校時代に氏の本と出逢い、物理の道に入ったのも氏の影響大であると思っています。
氏は、東京文理科大学(現在の筑波大学)卒業後、横浜市立大教授に就任、理学博士であり、著名な作家でもあり、TVの教養番組にもレギュラーで出演したこともあるというマルチ人間であられました。
また、氏の特技は、日本全国津々浦々のどこかの地方都市の写真を見て、どこの市であるか当てることができるという程の旅好きであったそうです。
氏は、1994年に同大名誉教授に就任され、著述活動にも励まれておられましたが、2002年惜しくも亡くなられました。

「マックスウェルの悪魔」「不確定性原理」「タイムマシンの話」「四次元の世界」「物理トリック=だまされまいぞ」「時間の不思議」etc etc...

白状しなければなりません。この物理エッセイは、都筑氏の著書の影響を色濃く受けていて、知らず知らずに、氏の語り口に似ていると自分でも感じています。決して、氏の著書のどこかを丸写ししているわけではありません。それだけは誤解なきよう。但し、このHPで紹介しているエピソードは、氏の著書によることが多いはずです。それはお許しください。

みなさまも是非、一度読んでみてください。「10才からの相対性理論」「10才からの量子力学」「10才からのクォーク入門」は、エピソードのかたまりです。

よく考えてみれば、私が大学にいたころは、クォークという超素粒子(?)なんてまだ教えて貰えなかった。それを今知っているのも都筑先生のおかげです。
何を読んでも、面白いはずです。

最後に、氏のご冥福をお祈りして。合掌・・・

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荷電粒子と磁石の話

今回は物理の話、気楽なコラムと思ってください。

ジェームズ・C・マックスウェル(1831〜1879)という人が電気と磁気を研究して最終的に得た結論は四つの微分方程式になります。突然こんな話を始めると逃げ出す人がいると思われるので慌てて私はこういいます。でも、この「問わず語り」で、方程式を書くようなやぼなことはしません。充分言葉で表現できて、なんてことはない、当たり前の話です。
(1)磁場には源がない
(2)磁場の時間変化は電場を発生させる
(3)電場の源は電荷である
(4)電場の時間変化、または電流は磁場を発生させる
とういのが方程式になっていると思えばいいです。それでも、よくわからない人は、次のことを思い出してください。
(1)磁石は切っても切っても、その両端にN極とS極が現れる
(2)自転車の発電機、あれは磁石を回してまわりのコイルに電流を発生させている
(3)電流とは、電子の流れである
(4)鉄の棒にまいたコイルに電流を流すと、鉄の棒は磁石になる
これは多分小学校でやった実験です。(そうですよね)

どういうわけか、電気と磁気はきれいに対称になっていないのです。
電気のプラス、マイナスは単独で取り出すことが可能です。ただし、人間の手で、電気を取り出せるわけではありません。物質を細かく分けていったら、物質は究極のマイナス粒子(電子)と究極のプラス粒子(陽子)からできているということです。
ちなみに一個の陽子の周りを一個の電子が回っているものが、水素原子です。
そして、電子の流れを、電流と呼んでいるわけです。

ところが、磁石のN極だけ、S極だけというものは、多分聞いたこともないはず。それで、磁場には源がない、という表現をします。磁気というのは、N極とS極が必ずペアで現れます(これを磁気双極子といいます)。だから、磁流というものもありません。
なぜこういうことになるかというと、電子一個、陽子一個が、既に磁石になってるんです。(これを素粒子のスピンといいます。)
だから、物質に単独のN極、S極がないのです。だって究極の粒子が既に磁石なんだもの。

ただし、詳しい話はしませんが、「磁気単極子(モノポール)」というものが考えられていまして、もし発見されたら、ノーベル賞確実と言われています。2002年ノーベル賞受賞の小柴先生で有名になった「カミオカンデ」でも、モノポール探しを1980年代にやったそうです。
モノポールの存在を言い出したのは、イギリスの、ポール・ディラック(1902〜1984)という人です。聞いたことないですか?私この人好きなんですよね。 ノーベル賞が決まったとき、とてもとてもシャイな彼は、受賞を辞退しようとしました。彼の先生であるラザフォード氏は、大慌てで「辞退なんかしたら、受賞するより有名になるぞ。」と言って説得したそうです 笑笑。
量子力学に相対論を持ち込んだはじめての人だし、上記モノポールを予言した人だし、なにより、陽電子を予言した人だし、風貌も好きです。

モノポールはまだ見つかっていませんが、陽電子は、アメリカのアンダーソンという人が、宇宙線から見つけ出しました。

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オーストラリアへの想い

この写真は、オーストラリアのエアーズ・ロック(今はアボリジニーの名前、ウルルが正式名)です。

これは、2000年12月30日夕刻に撮ったものなのです。
そうです、実は私、21世紀をウルルで迎えたのです。

着地は、12月28日朝、西海岸のパースでした。パース市内観光の他に、ピナクルズまで行って、大変貴重な景色を堪能しました。
そして30日夕に、なぜか、エアーズ・ロック・リゾートという原野の中の小さな小さな町に到着。31日は自由時間で、ヘリからウルルを観光、夜は、NHKの「紅白歌合戦」を見て、(まったく、NHKはどこでも見られる)迎えた21世紀、朝四時からウルルの麓で日の出を待ちました。
ウルルの頂上で朝日を見られれば最高だったのですが、暗い内に登るには、あまりに危険。明るくなってから登りました。現地のアボリジニーの人たちにとっては、聖なる岩山ですから、現地の人は絶対登らない。観光客はいったいどう思われていることか...
1日の内にシドニーへ移動し、2日に日本に戻ってきました。ウルルは、気温40℃、水を持ち歩かないと脱水症状を起こすという真夏。時差は数時間、(オーストラリア内を移動するたび時間が変わります。−−−これは相対論効果によるものではありません。)時差ぼけはありませんが、季節ぼけでしたね。
もともと、ウルルが主目的だったわけですが、私はパースの街が印象に残りました。大都会なのに、喧噪が全くない。シドニーに比べて治安も格段にいいです。週一日(金曜日だったかな)以外は、街中の店が17:30にはみんなしまってしまうのだそうです。とにかくせわしさが全くない街です。
老後を外国に住むならパースだな、と思った次第。

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